これはぼくが年をとったせいかもしれませんが、客観的に見れば、人間っていうのは、非常に単純なことで満足できるように思います。
ディズニーは、すでに無声映画時代から絵を描いていません。
知的、理性的に何かを掴んだかどうかはあまり問われないんです。
これは若い人にはあまり言いたくないのですが、ぼくは遅刻の常習犯だったんです。 それから、会社の中では、けっこう居眠りもしていましたし……。
「聞いておぼえる」とか「教えてもらえる」ということについては、地位がある人であるほど不利になるわけです。
「演出助手」として入社試験に合格したはずなのに、入ってみたら同じような新人が十人以上もいたんです。
ぼくがはじめて演出したのは『狼少年ケン』という作品で、二八歳ぐらいの頃だから、けっこう若いときからやらせてもらえたという点では、いま考えれば恵まれていたのかもしれません。
「作品をしあげる」ための職人性や貧乏性は、ぼくは、「持っていたほうがいい」という立場で仕事をしてきました。
アニメーションには、絵だけではなく、その動きについての、非常に細かいタイミングも設定する必要があります。ぼくはそういうことについても演出はわかっていたほうがいいと思うんです。
「どういう構図でどういうポーズが必要なのか」などを的確に把握し、動きのタイミングを設定して、具体的な指示を出して平均値をあげるという演出をやっていれば、「ぜんぜんダメだ」という結果はありえないのです。
抽象的な言葉を具体的な絵にするという作業は、描く側にはすごく勉強にはなるらしいのですが、その一方で、演出とともに迷いの中に入ってしまう場合もあるわけです。
抽象的なことを言って、描く人まかせにするという場合には、とてもすばらしいものもそこから出てくるかもしれないけれど「ぜんぜんダメだ」というものになる危険性もあると思っています。
ぼくはやっぱり、具体的なことをちゃんと知ったうえでやりたいと思っているし、「できあがるものの平均値をあげる」ということに力を注ぎたいのです。
ねらいの範囲におさまっているか、最小限直すとしたら具体的にどこをどうするのか、これで正しいタイミングなのか、などなど、完全な貧乏性で職人的に対処します。
できるだけよいものをつくろうと思えば、ひとつには、もちろんこちらのやろうとすることに共感してくれる才能ゆたかな描き手の存在が欠かせませんが、緻密な設計とはやい段階での的確な判断が必要です。
設計がまずくて、あるいは明確でなかったために、結果がまずいものになったとしてもあとの祭りなんです。
「どういう状態を思い浮かべるのか、それが成りたつかどうか」をきちんと把握する能力は、ぼくは、かなり重要なのだと思っています。
演出としては最終的な状態を思い浮かべる能力も必要だろうし、ぼくのように絵が描けない演出には、どうしても最初から少数の才能のある人たちに協力してもらわなければなりません。
捨てる絵を減らすために、スタッフに描いてもらう絵は、はやい段階でまちがいのない方向へと導かなければならない。それが設計ということで、ぼくらの場合では、できるだけ緻密な「絵コンテ」をつくる。
「たくさんの場面の、そのひとつずつの完成後の姿」を思い浮かべる能力というのが、アニメーションの演出には常に求められてきます。