「面白いことを言ってもらえたらその分映画が面白くなる」という関係の方が、いろいろなスタッフと仕事をする意味があるんじゃないかと思っています
興行のことはわからないことばかりなんです。海外の評価にしても、計算や予想は外れることばかりですので、自分本位に面白がるようにしています。褒められて乗せられる、評価されたいからやる、というのでは自分を見失ってしまいますから
20年間映像の仕事をしている経験から、僕は自分が物事を考えるために映像を必要としている人間だとは自覚しています
三作目の『DISTANCE』でも、テレビのやり方に近づけるために現場で働く人数をギリギリまで減らして、テレビ的な横の連携で映画をつくってみたんです。たとえば録音の人も音だけを聞きながら「このセリフのニュアンスは違うんじゃないか」などと演出と脚本にも意見を言ってくれる。担当のセクションを越えて意見が言い合える環境が理想的だと思っています
公開前に、どんな宣伝のデザインにして、どんなスチールカメラマンに入ってもらって、どんな言葉を載せたら面白くなるか、なんてことは割と考える方です。お客さんは、宣伝を見てから映画に行くのかどうかを決めるのだから、そこまで含めて自分の作品ではないかとも考えています
(映画の)過去と未来を考えながら、今を捉える。その先の、「未来」はどうあるべきか。それを考えていく責任があると思っています
耐えられる人は耐えればいい。でも、耐えられない人は無理すべきじゃない
いろいろな制約はあるけれど、その制約を通して何ができるか考えることで、自分も育つ。そうしてようやく、個性が見えてくる
偉そうなことを言う前に、とりあえずやってみれば
制作者は「業界の制約」にぶつかる前に、「自分の中の制約」とぶつかるんです。それとどう向き合うかが先
自分で自分を褒められることがあるとするならば、僕は「これは自分の仕事だ」と思ったら、徹底的に頑張ってきた
人って、誰かと接することで作られていく生き物なんだと思います
日本では多数派の意見がなんとなく正解とみなされるし、星の数が多い方が見る価値の高い映画だということになってしまう。『浅はかさ』の原因はひとつではありません。それぞれの立場の人が自分の頭で考え、行動していくことで、少しずつ『深く』していくしかありません
ネットにあふれる暴力的な本音より、建前や慮(おもんぱか)ることに“真実”があると思う
新作を拝見して、やはり非常に驚くのは、登場する人たちは、なぜ自分がそんな不幸な状態に置かれているかということには、気づいていない。彼らは、ただ幸せになりたい、家族と一緒に暮らしたいと思っているだけにも関わらず。
なんだろうね。家族を守るために就いた職業なのに、そうではない方向に向かってしまうという、そういう描写が私たちにむしろ、一体どうすればいいんだろう、何がいけないんだろうということを考えさせるという、見事な構造になっていると思いました。
ダニエル・ブレイクは本当にユーモアがあるし、脇の人間たちの描写が見事だと思って。何度見てもやっぱり泣いてしまうのが、フードバンクで缶詰を食べてしまうシーンなんですけども。
日本で『万引き家族』が公開されたとき、犯罪を擁護するのか、という意見があったり、彼らは自己責任だろうという意見が、ネットを中心に言葉が飛び交ったりという状況があって。
今おっしゃられたように、実際に不正をして搾取をしている人たちは誰なのか、というところになかなか目が向かないように、イギリスもそうかもしれませんが、日本はなっています。それはメディアを巻き込んで、今の政府が非常に上手に自分たちに批判が向かないようにしているからだと思います。
あれは、そうですね。ファーストテイクですし、台本には刑事側の質問は書かれていないので、彼女は何を聞かれるかわからずに、あそこに座っていて、質問を1つずつ僕がホワイトボードに書いて、カメラの脇にいる刑事役の役者に見せて質問をしていくというやり方でした。生のリアクションを撮りたいということで、長回しにして、ワンテイクで撮りました。