TVアニメは基本的には、スタッフに満足のいくギャラが出てないわけです。監督として、参加してくれたスタッフに対してできることは「やってよかった」と思ってもらうことだけなんです。そうでなくても、最低限の作業で最大の効果っていうのは、演出サイドが一番考えなきゃいけないことなんじゃないかと思う。
情報量を詰め込んだ方がいいというのもあったんだけど、メリハリの部分もあるんです。いまのお客さんの大半は、ビデオで録画して観てるじゃないですか。だからエヴァはビデオで録って観るというのを前提に作ってあるんです。だったら、オープニングも細かく作った方がいいだろうと。歌詞の一文字に対して一枚の画ぐらいの細かい曲合わせをやってみたんです。
セーラームーンでわかったのは「緩い世界観というのがいい。要は遊び場を提供すればいいんだ」ということだった。個性的な、わかりやすいキャラクター配置と、遊べる場所。何体かの人形と砂場が用意されていて、ファンがその砂場で自分たちで遊ぶことができるのがセーラーの人気の秘訣だと思った。だから緩く作る。ガチガチに作っちゃうと、余裕がなくなる。それでは息が詰まると思うんです。
周囲の評価もさほど気になりません。最初は気にしましたが段々となくなりました。もちろん、感情的には誉められると嬉しいですが、嬉しい以上は何も感じないので、創作の目的にはならない。だからといってなぜ作っているんだ、問われても自分では答えを出せません。他にすることがないからやっているだけかもしれませんね。
パソコン通信にハマる人たちは現実世界に帰れ
僕のようなアニメや漫画をばかり見てきた世代は、パッと浮かんだことにだいたいいつも元ネタがあり、時に嫌になる
勉強と風呂が大嫌いだった
宮崎駿監督と対立していた
エヴァ制作後、鬱状態に陥っていた
僕らの世代は共通体験が同じじゃないですか。僕らの世代のヒーローは“とんねるず”なんです。“とんねるず”のやっていることは昔のパロディみたいなもんでしょう。パロディから出発して自分のものを乗せていく。
自分達が生き残るためにナウシカは血で汚れて、よかったです。忌み嫌っていた巨神兵の火で破滅しなければいけない業の深さ、これがいいんですよ。もう、いつわりのない宮崎駿のポリシーが出ていてとにかくあそこではパンツを脱いでいますから。
僕の中に破滅願望があるんで、永井豪さんが『ハレンチ学園』で世間に叩かれて、それから社会に対する不信感がずっと自分の中にあるって言ってますよね。あれは僕にもなんとなくあります。こういうものを作っていると相当非難がありますから。
コピーをする時に自分の魂をこめる。まあ、それは人の魂が入っている。ただのコピーではない。いままでのマンガや特撮もの、アニメをコピーした『エヴァンゲリオン』はそこのメタファーみたいなところはありますけれど、いちおう、基本的には置き換えで作ってますんでね。
ものすごく怖い考えに捕らわれたことが一回だけある。それが終わってからすごく鬱が激しくなった。死にたくなるなんてこともあって、愛を求める絶望的な叫びって言うんですか。そこまで行って、自分の孤独に耐えられなくなって、先がまったく見えなくなったんです。
『王立』『トップ』『ナディア』の時とかの過去に文句を言ってきた嫌味な連中というイメージがゼーレ委員会にはあった。そこで突き上げをくらう碇ゲンドウ。俺たちには時間がないとかってことでそこからスタートしたわけですけれどそういう狭い世間から外れていた。最後は人から外れてたってことですね
人間は孤独であることからは脱することはできない。孤独を忘れることしかできないわけです。その瞬間が幸せなんですから。
僕は監督兼プロデューサーという地位で、スタッフは僕に依存するしかない。それはシステムとしてしようがない。僕と同じ位置に身をおくことのできる人はいない。監督兼プロデューサーというのは独裁者でありしようがないんですけれど、それはそれで孤独ですよね。
『愛と幻想のファシズム』とか。あれのゼロが好きなんです。依存心の高い。村上龍も僕と同じで何もない人だと思う。すごく情けない人。
僕を欲しいでしょうね、宮さんは(笑)。
代表作は何って聞かれて、たいていの人が次回作だって言うけれど、それは仕方がない。そう言わないと作れないってことがあるから。