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【島本 和彦】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:朝日新聞デジタル

今回は有名な「島本 和彦」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている有名人「島本 和彦」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

島本 和彦とは

本名 手塚 秀彦(てづか ひでひこ)国籍 日本 北海道中川郡池田町出身 生年月日 1961年4月26日 日本の漫画家、実業家
島本 和彦(しまもと かずひこ) 漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表、株式会社アイビック及び株式会社アカシヤ代表取締役社長。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。
池田町で生まれ、幼少期を豊頃町で過ごした後、小学校1年生のときに札幌へ。小学校の頃から鉛筆でギャグ漫画を描き始める。札幌清田高校時代は陸上部と演劇部に所属し、アニメや特撮のパロディ漫画も執筆していた。
卒業と同時に北海道を離れて大阪に転居。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(映像学科)在学中の1982年(昭和57年)、『週刊少年サンデー』2月増刊号にて「必殺の転校生」でデビュー。デビューと同時に大学を4年に上がる手前で中退して大阪を離れ上京、プロの漫画家生活に入る。
1990年代前半からはまんが甲子園の審査員としても活動。1990年代半ばに東京から札幌に帰郷、それと前後して同人漫画家として同人誌活動も行い、夏・冬のコミックマーケットにはほぼ毎回参加。2001年(平成13年)から2008年(平成20年)にはラジオ番組『島本和彦のマンガチックにいこう!』(STVラジオ)のパーソナリティも務めた。

参考:Wikipedia

島本 和彦の名言集

十勝の豊頃町ですね。駅前に家があったんだけど、当時はまわりに何もなくて。郵便局と、雑貨屋みたいなお店がひとつ。あとは駅(笑)。

もう、いくらでもあったよ(笑)。保育所に行く途中に牧場があって、いつも牛のそばを通ってた。

歩いて近所のあっちこっちに行ってね。「風が強い日だなぁ」とか、「猫柳は猫に似てるんだな、ふさふさしてるんだな」みたいなことを感じていたのを覚えています。

白黒テレビが家に1台あったのが、すべてですよね。テレビは本当によく見ていました。「ウルトラQ」(1966年)は本放送が記憶にあります。

2カ月に1回ぐらい、お絵描きのための白ノートを買ってもらうんだけど、表紙に絵が描いてあるわけ。その裏に「塗り絵」といって、線画が載っているのが重要でした。

これはホントの絵の実力じゃない……!!

当時はよく「パーマン」の絵を描いていて、初めてコマを割ってマンガを描いたのも「パーマン」。

『まき』はタイトルじゃなくて、サブタイトルだろう! そんな簡単なこともわからないのか!

親は木材の仕事で失敗して、私が小学1年生のときに札幌に移って、ダスキンの仕事を始めるんだけど、生きていくため、生活するために忙しすぎたんだね。何も言われなかった。

「ガメラ対◯◯」の映画が次々と公開される記事を雑誌で見ると、あれが子ども用につくられていることは、なんとなくわかるんですよ。だけど自分は見に行ったことが一回もない。「なんだろう、この世界は?」と。

おもちゃのカンヅメだ!! なんなんだろう、あれは!? ってさ。チョコボールを買っても、金のエンゼルどころか、銀すら見たことなくて。

想像力はねえ、鍛えられますよね。雑誌に載っている広告で欲しいおもちゃがあると、どうやってできているんだろう? 遊んだらどうなるんだろう? みたいにさまざま考えました。

50メートルも離れていないところに、子どもたちを集めてやっている絵画教室があったので、そこで絵を習ったりしてね。

近所の工場に行くと、西洋紙の分厚い束を20円で売ってくれたので、それでコマを割ってマンガを描いたりもしてました。

「誰がいちばん009を描くのが上手いか?」を競ったこともあったなぁ。

あのときは負けたけど、今はどうだか。ちょっと戦おうぜ!

男の子なんて、最初に見た女の子が初恋の相手じゃん!! 初恋の相手を選べるの!? 女の子は登場順に好きになるもんですよ!!

誰も何をやっているのか……わかってないんですよっ!!

誰も知らないところに行くって、めちゃくちゃ変身できるなと思ってはいました。

若い学生らしく無茶なことをしたいんだけど、ホントの無茶をするのは怖いので、そのぐらいの冒険をやっていたんです(笑)。

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