引用元:新潮社
今回は有名な「山崎 豊子」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている有名人「山崎 豊子」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?
山崎 豊子とは
1924年(大正13年)1月2日生まれ、大阪府大阪市南区(現:中央区)船場出身。2013年(平成25年)9月29日死去。日本の小説家。1957年(昭和32年)に生家の昆布屋をモデルに、親子二代の船場商人を主人公とした『暖簾』を刊行して作家デビュー。出版後すぐに映画・ドラマ化され、人気を博した。
1963年(昭和38年)より連載を始めた『白い巨塔』は大学病院の現実を描いた鋭い社会性で話題を呼び、田宮二郎主演で映画化されたほか、数回に亘りテレビドラマ化された。
『大地の子』で引退を考えたが、「芸能人には引退があるが、芸術家にはない、書きながら柩に入るのが作家だ」と新潮社の斎藤十一に言われ、執筆活動を継続した。
山崎 豊子の名言集
小説ほど面白いものはないですね。人間ドラマですものね
カネ、カネ、モノ、モノといって、日本はいま精神的不毛地帯になりつつあることを警告したい
学生のころからキリマンジャロを見ながら死にたいというロマンチックな気持ちを持っていた私は、自分の気持ちをなんとか動かさなければとアフリカへ行くことにしたのです。私は未知の国に行くときは、時間をムダにしないように、その国をよく知っている人を探すことにしています
骨の折れるしんどい仕事をしていると、作者にしか味わえない楽しみをそっと忍ばせてみたくなるのです
いちばん小説づくりで苦しむのは主人公ですね。主人公の性格即小説だといってもいい
私は主人公の名前に凝る癖があります。名前だけで、読者に主人公のイメージを鮮明に定着させたいと思うからです
(「運命の人」について)私はこの物語を悲劇として描きました。この悲劇をもたらした国家権力の欺瞞に対する、強い怒りをこめたつもりです
私はなんとなく沖縄が祖国復帰して万々歳、様々な問題は片付いたような気になっていたのですが、実際にこの目で見た沖縄の実情は違いました
先の戦争で、大学生だった私は軍需工場へ動員されました。その時の辛さ、悲しさが私の作家としての原点でもあります
取材で得た事実を羅列しただけでは小説にはなりません。テーマをどう構成し、人間ドラマを形作って行くか、考えに考え抜き、ディテールにもこだわります。そうしてこそ作品に厚みが出て、真実というものが表現できるのではないでしょうか
特別な秘訣なんてありません。私はいつも、ただ良い小説を書こうとしているだけです。ただ、そのための時間と労は惜しみません
長編執筆中はエッセイやインタビュー、講演などの依頼をすべて断わって小説に集中しているため、ほとんど表舞台に立つことはありませんでした
作家として日本の将来を考えた場合、本当に勇気を持って書き続ける精神を失ったら“ 作家の死”を意味する。命ある限り勇気を持って書く
『原稿用紙と万年筆を持ったまま棺に入る』覚悟でいる
私は文字通り四六時中、小説のことだけを考えています。大きな構想のもとに、出来る限りの取材をし、事実を掘り下げる
掲載した連載誌の広告が止められて、私は貧乏神でした
私には青春を奪った横暴な国家というものを許さん、という思いがしみこんでいます。泣きみそ(泣き虫)ですが気が強いんです
不条理に立ち向かい、虐げられた側の心を書き残すのが作家の使命
人によってお辞儀の角度を変えてはいけない
私には、若くして死んでいった人間たちへの責任があります。だから半世紀も作家を続けてこられたのです