今回は有名な「富永 愛」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている有名人「富永 愛」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?
富永 愛とは
1982年8月1日神奈川県相模原市に生まれ。日本のファッションモデル。
幼少期から背が高く、当時はコンプレックスだったという。「背の高さを生かせる仕事をしてみたい」と思い、15歳の時に姉が読者モデルに応募(当時は175cm)。ボン・イマージュに所属し、雑誌『プチセブン』のモデルとなった。
17歳の時に高校の制服を着た写真が雑誌『ヴォーグ』に掲載された。その写真を見た海外のファッション関係者に誘われ、本格的に世界で活動を開始。
2001年にニューヨークコレクションでランウェイモデルとしてデビューを果たす。
2005年に出産し、半年間の休業を経て、2006年春夏コレクションで復帰した。
2007年頃に起きた「痩せすぎモデル問題」では、冨永もショーに出演できる数値を満たしておらず、いくつかのショーの出演をキャンセルされた。
WFP国連世界食糧計画のオフィシャルサポーターや、国際協力NGO ジョイセフ (公益財団法人)のアンバサダーとして2011年度から、社会貢献活動を行っている。
富永 愛の名言集
コンプレックスは消えない。でも小さくすることは出来る。消そうと思わない方がいい
突出している所を一つだけ伸ばしてくれればいいのに全部を平均して上げようとするからみんな嫌になる
「落ちこぼれている」という自己評価は、自分ではなく実は他者が作る部分は大きいように思います。
幼稚園、小学生から中学生まで、ずっと「人とは違う」と言われて生きてきて、いつも疎外感がありました。中学生の時は思春期ということもあり、どんどん内省的になっていき、「なんで生きているんだろう」とか「生きるか、死ぬか」といった死生観と向き合う日々を過ごしていました。
十七で人を憎しみ、殺したいと思い、モデルの世界に入ったわたし。貧乏をのろい、バラック小屋をのろい、ふつうの家庭に育つ級友を羨ましく思い、わざと悪びれて、タバコを吸い、不良仲間とタムロし、先生に刃向ったわたし。わたしがのろいつづけた、わたしの境遇。劣悪な境遇。でも、それは、全部、必要なことだったと、空が語っている。だって、そんな不遇になかったら、今のわたしはいないから。
中学高校時代は、男の子より背が高く、“可愛い感じ”とは無縁。そんな自分が嫌いで、コンプレックスにさいなまれ、やがて“怒り”に近い感情に変わっていきました。男に生まれればよかった、とメンズの服を着ていたことも。ところが、17歳でモデルの世界に脚を踏み入れてからは、オセロが一気にひっくり返るように、弱点がすべて武器になったんです。
幼少期の父と母の離婚による寂しさ、小学校でのいじめ、中高生では自分のコンプレックスに悩んでいた時期。その後、たまたま見つけたモデルの道で、「ここで生きていくしかない」と思ったのに、海外に行ったら、アジア人として差別や偏見。モデルの表現の中に果たして自分が存在しているのか。自分という生き物がわからなくなってしまったのです。
元々、このファッションという世界でアジア人モデルが活躍できる確率はほんの一握り、いや、爪の先ほどの確率だった。それが、社会に出て初めて私の前に立ちはだかった大きな壁だった。アジア人には黒しか似合わないのよね、と、自分の可能性を踏みにじるようなことも言われた。私の存在を完璧に無視するように扱われたこともあった。人としてではなく、まるで物のように手をヒラヒラとされ、あっちへ行けというようなジェスチャーをされたことも度々あり、その度に心を打ち砕かれてきた。
モデルを一生懸命やってこれたエネルギーは“怒り”だったということに気が付いたんです。自分に対するコンプレックスやアジア人の偏見に対する怒り…、その怒りのエネルギーがあったからこそコレクションモデルとして10年間やってこれた。
過労が原因だったと思うのですが、昨年、原因不明の高熱が1週間以上続き入院したときに、自分の生き方や考え方、仕事と子育ての両立を見直そうと思いました
向こうから目をつけられる前に自分から近寄ってタイマンを張った。負けた記憶は一つもない。
ランウェイは、いくら華やかでも、先まで歩いたら、立ち止まらなければならない。ターンして引き返さなければならない。行き止まりの道。
インスタグラムのストーリズという機能を使って、フォロワーから私への質問を募ったことがある。多くの質問を寄せてもらったのだけれど、その中で最も多かったのが、「自分を好きなるにはどうしたらいいか」「自分に自信を持つにはどうしたらいいか」という質問だった。これほど自分自身が何者であるのか、と悩んでいる人が多いことに驚いた。しかし、それと同時に、かつての私も、その中の一人だったことを思い返したものだ。
誰かに手料理を作っていることが多いな、と思った時には何かしらの原因で心が疲れている時だったりする。それが分かってから、何かで落ち込んだ時には、思いっきり凝った料理を作るというのが、私の心の癒し方の一つになった。好奇心が旺盛なのも私の特徴の一つだろう。やってみたいことはできる限りやってきた。その結果、自分が何が好きで何が嫌いなのか、何が得意で何が苦手なのか、少しずつ自分のことを知ってきたように思う。それが自分を知る方法の一つになっているのは確かだ。
20代で壁にブチ当たる体験をして、本当によかった。そのときは周りから『いい体験だよ』と言われてもピンとこない、でも、後になるといい体験だったことがわかります。壁を乗り越えるにせよ、乗り越えられなくて壁に沿って歩くにせよね。壁を乗り越えることが重要なのじゃなくて、まず壁にブチ当たることが大事なんです。
若い世代が私たちのころと違うのは、彼らのせいでは全然なくて、それは時代が変わったからだし、世界が変わったから。本当にものすごく変わりましたよね。だからこそ私たち上の世代も考え方を変えなきゃいけないと、思っています。若いうちは流れに沿って変われる柔軟性があったけれど、30代以上になるとそれがだんだん難しくなってくる。大人も時代を知って、変わる努力をしないと。
日々努力して『できた!』という既成事実を積み重ねることで、一つ一つ、目の前の不安要素を消していく。学校の勉強だって最初は強制されてやるわけだけど、良い成績が取れたらそれが自信になる。頑張って取り組むうちに、跳び箱を5段飛べるようになるとかね。たとえきっかけはなんであっても『できた!』という事実だけが、未来の自分自身を形作っていくような気がするんです。
肝心なのはやっぱり自分の心。もしも、やりたいことや目指すものがあるのならば、いつかそのチャンスが回ってきた時に自分の手でつかみ取れるように、常に準備しておくことが大切だと思っています。
10代で海外に出たときから、チャンスに2度目はないとわかっていました。メイク、カメラ、衣装……すべてがその1回かぎり。だから『このチャンスを掴まなきゃ!』という思いが強かった。やらなければ“次”はない。やらないで後悔するより、やって後悔する方を選びたいと、今でも考えています。
今まで関わって下さった多くの方へ、そして自分を産んでくれた父と母への感謝が生まれました。自分がどれだけ寂しい思いをしても一生懸命育ててくれた母には愛がありました。