先生が病気と闘ってらっしゃることは聞いていたけれど、なんといってもやっぱりショックでした。ただ、先生とは、ずいぶん、いろんな所に行けたし。先生の写真もいっぱいあるし。
先生の直筆の年賀状があったんです。鉛筆で全部書いてらっしゃるの。それも良い和紙で。これを額にしようと思って、鏡台の前に置いてあるんです。ステキですよ。ほんと、宝物です。
ジャイアンやジャイアンのママや、みなさん全員で函館へ旅行したんですよ。「ハ」の字がつくから、今度視聴率とったらハワイかな?! ってみんなで喜んでたら箱根だったりとかね(笑)。
トップということは、業界に長くいて歳をとってるってこと(笑)。その歳をとったのがそのまま25年続けてる。これはホント、ギネスだねって笑うんですけど。
オレは、この子が小学校あがって何年かたって「スネ夫の声、私のおじいちゃんよ」って自慢できるようになるまでがんばろうと思った
きれいな花火がピカピカついたケーキが出てきたの。そして、はにかみながら「わたし還暦」って言って、ケーキのろうそくをフッと吹き消し……みんな大笑いですよ。
自分が姿形を出してる番組だったら、25年は続きませんよ。みんな、こんなになっちゃうワケだから(笑)。
なんといっても、日本中の子どもより一番先に全部見られるわけでしょ? 声入れながら、「おっかしいー」とかみんなでワーワー笑って、ギャラをいただくんだから、こんなうれしいことないです。
しずかちゃんとドラえもんだけは、どっこも悪くなくて「丈夫ねえ、私たち」なんて言ってたら、一昨年しずかちゃんが腰痛で(笑)。小学校5年生が腰痛っておかしいでしょ?
そうですね。あと5年はがんばれるかもしれないけど、10年というと、みんなが70代になっちゃうし、そうなったときに果たして……と思うときはあります。
いつかはって思ってる。ドラえもんをきちんと理解して、そしてドラえもんのやさしさを出してくれるような、そんな人にやって欲しいなと……。
不思議に声って変わらないで出てるんですね。だからみんなで「杖をついてしまうようになってしまってもがんばろうね」って言ってます。25年やったんだから、30年も35年もがんばりますよ!(笑)
私が役者になろうと思ったきっかけは、高校時代に母が亡くなったことですね。これから一人で生きていくためには、何か手に職をつけなきゃならないと思ったんです。
母から「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。声を出すような部活動をしなさい」
役者の仕事は元気であれば一生続けられますからね。それでまずは基礎から学ぼうと思って、俳優座の養成所に入ったんです。
最初は50人いた同期生がどんどん減っていくんです。これ以上勉強しても伸びないと判断された人は、「もう辞めなさい」と肩を叩かれたんだそうです。
先生は超一流の方がそろっていましたので、授業の内容もかなり高度だったんですが、とにかく必死で食いついていこうと思っていました。
さまざまなアルバイトをしていました。養成所の先生のお宅で、家政婦みたいなこともしましたね。
人生で覚えておいてムダになることなんて何一つないと思います。
テレビが始まったことで役者の仕事が飛躍的に増えていったんです。なかには「映画じゃなくちゃイヤだ」「舞台を中心に活躍したい」と言う人もいましたが、私は来た仕事は何でもやろうと思ってました。