母を訪ねた時に、「今日、何したの?」と聞くと、母は日によっては「取材」とか、「みんなとお芝居やっているの」と答えます。娘の人生と自分の人生がオーバーラップしているんですね
自分の人生の一番充実した時代の記憶に戻る人は多いけれど、自分以外の人の記憶を語るのは珍しいことですよ
心の中に何か思いがあるから、その言葉が出てくるのではないか。2、3年かけて考えているうちに、本当は母も女優になりたかったのかもしれないと思い至ったのです。
そうだ、母が心の底で女優になる夢を抱いていたのなら、デビューさせちゃえばいいんだ
乱暴な発想ですが、ワンカットでもいいから母を撮影して、それが映画として公開されたら、女優としての既成事実ができる、と──。
シンガーソングライターで、4月に女優としてもデビューする長女・優河、次女で女優の静河も、みんなで撮影に協力してくれることになり、長男夫婦が日本に滞在する間に撮影をすることに決定しました。
撮影までの過程をドキュメンタリーとしてひとつの作品にすることも考え、使えるかどうかはわからないけれど、私はiPhoneで母の動画撮影を開始しました。
母の故郷にロケハンに行った時、母の義姉の小林きよさんが「ヒサちゃんは10番目だよ。小さい時に亡くなった子が2人いて、ヒサちゃんのお母さんは13人目のお産で亡くなったの」と教えてくれました。
私が子どもの頃、母から何度も「私のお母さんはお産で亡くなったの」と聞かされていましたが、その頃はよくわかりませんでした。今ならその苦しみを実感することができます。
勉強が好きだったので尋常小学校卒業後は女学校に進みたかったけれど、とても家にそんな余裕はなかった
千葉県の蘇我にあった軍需工場に駆り出され、ゼロ戦を作る作業をしていました。若い女の子たちが寮生活をし、戦闘機を作っていたのです。
母はその後、ふと思い返すことがあったそうです。「あのゼロ戦に乗った兵隊さんはちゃんと目的地まで行けただろうか?」と
映画を撮ろうと思ったことをきっかけに、私は改めて自分自身のことも振り返りました。そこで気づいたのは、私が生まれた時、終戦からたった13年しかたっていなかったということ。
私が小さい頃の写真を見ると、原っぱにぽつんと立っている写真でも、これから世の中がよくなっていくという希望や、前向きな明るさが見えてきます。
実在の日本人バレリーナを題材にした伝記漫画を読んで、どうしてもクラシックバレエを習いたくなり、母にせがんで教室に通い始めました。それなのに、中学1年で早くも挫折。
『小さな恋のメロディ』という映画を見たのです。本当に素敵な作品で、スクリーンの中が光って見えた。「これだ!」と心が震え、そこに飛び込みたいと思いました。
私は傲慢で、本当にひどいヤツでしたから(笑)。当時は、自己主張が感じられる新しい女優像が注目されていた時代。桃井かおりさんや秋吉久美子さんといった先輩方が、キラキラ輝いていました。
常に戦闘モードで人を寄せ付けないオーラを出していた。メディアに潰されないように、とも思っていたのです。
結婚して子どもを産んでからは、ベビーシッターさんと母に助けられて仕事を続けることができました。子どもたちも、おばあちゃんのおかげで今の自分があると、客観視できる年齢になったのでしょうね。
自分ができなかったことを、子どもには挑戦させてあげたいと思うのは、母親の普遍的な感情かもしれませんね。だからこそ、母も本当は人前で踊ったり演じたりしたかったのかな、という考えに至ったのです。