今回は有名な「原田 美枝子」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている有名人「原田 美枝子」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?
原田 美枝子とは
本名 石橋 美枝子 出生地 日本, 東京都豊島区 生年月日 1958年12月26日
原田 美枝子(はらだ みえこ) 日本の女優 所属事務所は舞プロモーション
夫は俳優の石橋凌。3児の母(長女はシンガーソングライターの優河、次女は女優の石橋静河。2人の上に息子がいる)。
1976年、『大地の子守歌』『青春の殺人者』などに出演し、10代でキネマ旬報主演女優賞などを受賞し、一躍評価を高めた。ヌードもいとわず、演技力も伴っていることで、当時から評価の高い女優だった。83年には、神代辰巳監督の『もどり川』で萩原健一と共演し、好評を博した。続いて黒沢明の『乱』にも出演している。
『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』では自ら製作・主演に関わるとともに、「刹那」の名前で原案、脚本もこなす。1986年に小説『愛しのハーフ・ムーン』(集英社コバルト文庫)を発表。翌1987年、滝田洋二郎監督によりにっかつで映画化されている。
黒澤明、神代辰巳、長谷川和彦、実相寺昭雄、深作欣二ら、多くの監督からオファーを受け数々の映画賞を受賞している。
参考:Wikipedia
原田 美枝子の名言集
今の子どもたちは、バーチャルな世界に生きていて、命に対するリアリティーが希薄。それだけに「人間は、動物や植物の命をいただいて生きているんだし、自分自身も命そのものなんだ」ってことを、ちゃんと大人が伝え続けないといけないですよね。命の尊さがわかっていないから、自分も他人も雑に扱うようになってしまう。
人間は何をしたらいいかっていうと、やはり一生懸命生きるしかないと思うんです。私たちにできることは、「無駄に生きない」ということしかない。
ひと通り経験して40代になった今、俯瞰(ふかん)で、自分の人生を見通すことができて、まるで大河ドラマを見るような感じ。それが結構おもしろいですね。
30代になってから。自分の表現力の素晴らしさを知らしめるために芝居をするんじゃなくて、言いたいことが言えなかったいろんな人たちの思いを、作品を通して代弁することが女優の仕事なんだ、と思うようになったんです。そうしたら才能がどうとか、全体の出来なんてどうでもよくなってしまったんです。それ以降、どんな役もおもしろくなったし、大事にするようになりました。
映画ってセリフひとつとっても、単に芝居がうまい下手ではなく、その人の品性、誠実さが浮き出てしまう。中途半端な俳優だったりすると、とても陳腐になってしまうわけです。それだけに、普段から心の在り方や何をどう見つめるか、そして真摯に生きるということを、ちゃんとやっていかないといけない。
失敗するとわかっていても、行動して学ぶほうが、行動しないで安泰な所にいるよりいい。失敗したら落ち込みますが、やらなければよかったと思うことは、絶対にないです。
これは黒澤明監督がおっしゃっていたことですが、「悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、そのための目を磨いておかないとできない」って。
今は、外出時にマスクをするようになっていますが、マスクをしていても化粧はするようにしていますね。一度「どうでもいいや」と思ったら全てどうでもよくなってしまう気がして。
体幹が鍛えられるんですよ。体はほうっておけばどんどん老化していきますからね。乗馬は全身を使うので、真冬でも全身汗びっしょり。汗をかくと本当に気持ち良くて、身も心もデトックスされたような気分になります。
なかでも嬉しかったのは、「原田さんの家族を見ていると思ったのに、だんだん自分の家族を見ているような気がしてきた」という感想をいただけたこと。映画公開には厳しい時期でしたが、その後も全国で上映していただくことができて、恵まれていると思います。
女優としての仕事はほぼストップ。この先、世の中どうなるんだろうという漠然とした不安にのみ込まれ、秋くらいから気持ちが沈んでいきました。
先生は「体も心も浮き立つような、ピンク色の気持ちになることを考えて」と。心が軽くなれば、自然と体も上に引き上げられるようです。
韓国ドラマ『愛の不時着』を勧めてくれたのです。観てみると、脚本も演出も本当によくできていますし、出演者たちの演技も素晴らしい。15歳で仕事を始めて以来、一視聴者として無心にドラマを楽しむことはほとんどありませんでした
自分がいる場所とは違う世界で一所懸命生きている人たちと、喜怒哀楽をともにする。そんな体験を通して、「ドラマって素晴らしい」「俳優はいい仕事だ」とあらためて実感しました。
母の映画を撮影するうちに戦争について考える時間を持てたことも、とても貴重な経験でした。母は、満足に食べられない、明日生きているかもわからない時代に10代を過ごした。
90歳になる母に認知症の症状が表れ始めたのは、80を過ぎた頃です。キャッシュカードの暗証番号がわからなくなることが何度か続き、そのたびに一緒に銀行に行ってカードを作り直しました。
私も仕事が忙しかったので、きめ細かく面倒を見る余裕がなくて。母の症状も、年齢とともに物忘れが少しひどくなったのかな、くらいに思っていたのです。
父が食道がんになり、入退院を繰り返すようになりました。父は「病院にいるのはつらいから、もう治療はいい。今度具合が悪くなっても、家にいたい」と。
時には喧嘩をしながらも、父の世話をすることが、母にとって張り合いだったのでしょう。
症状が落ち着いたら突然、「私ね、15の時から、女優やってるの」と言い出したのです。正直、びっくりしました。15から女優をやっているのは、母ではなく、私ですから。