頭の中にあるイメージを外に出す、感じたことを外に出すということを、抵抗なくスムーズにできるのがドローイングでありスケッチなんです。
咲き乱れる花々の印象は真っ白でも、その背後にコピー用紙程度の紙を置いてみると、花そのものの白さは紙の白さほどではないことに気が付く。花弁は淡い色を含み水分をたたえた重たい白である。しかし咲き誇る花々が僕らの心に届けてくる白は鮮烈に白い。
大学というのは、自分の興味を自分で決めて、そして先生という、活発なリアクションをくれるコーチを据えて、その人と対話しながら、自分なりの問いをつくって、自分で答えを出していくということをやる場所なんですよ。
脳は、差し出された小さな空の器に、反射的に「答」を入れるという傾向を持っている。
アートは個人が社会に向き合う個人的な意志表明であって、その発生の根源はとても個的なものだ。── 一方、デザインは基本的に個人の自己表出が動機ではなく、その発端は社会の側にある。
日本の余白というのは意識がためられて、ためられて、それらが止揚されるようにして生まれる空間なんです。江戸時代の絵画の技法書『本朝画法大全』には「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」という言葉があるそうです。
棍棒というものが人間の手にした最初の道具だと言われています。しかし道具の始原はもうひとつある。空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、二つの手を合わせて水をすくって飲んだはずです。それが器の始原。
日本の近代史は文化的に見ると傷だらけである。しかし自国の文化を何度も分裂させるような痛みや葛藤を経た日本だからこそ到達できる認識もある。
よくつくられた製品にこめられた美意識に触発されて小さな覚醒がおこり、つぼみがふくらむように暮しへの希求がふくらむ。ふくらんだ希求に呼応してものが生み出される、その無数の循環と連繋によって、文化の土壌が出来上がっていく。デザインとは土壌の質への関与なのである。
優位を自覚した後にそれを誇示せず、むしろ上手にそれを隠す。そういう状況の周辺にエレガントはふっと発生する。
室町時代に確立した諸芸として、能、連歌、立花、茶の湯、築庭、書院や茶室の建築などがあげられるが、いずれも美的なオブジェクトを生み出すだけではなく、組み合わせ、制御し、活用する才能が諸芸を生き生きと走らせていく。
やはり言葉は大事にしたいと思っています。ここぞという時に、切実な言葉を選択できないと、物事がうまくいかない。
いつもより少し深く息を吸い、そして吐く。これを深呼吸と言いますが、社会もデザインも深呼吸が必要な時期を迎えているのかもしれません。
ガラスハウスの技術が進んでいるのはオランダです。日本はもともと国土のほとんどが森ということもあり圧倒的な自然崇拝があるけれど、オランダは国土の3分の1以上が干拓で、森や植物すらも自分たちでつくってきた。つまり、多くの自然がアーティフィシャルなんですね。
大きな段差は必要ではなく、最小の差異のみで意味の編み物を編みたいと思うようになった。その方がずっとデリケートな編み物になる。
White exists on the periphery of life. Bleached bones connect us to death, but the white of milk and eggs
There is no such thing as "white." Rather, "white" exists solely in our Sensory perception.
ぽとりぽとりとしたたり落ちる雫の、一滴一滴の気の遠くなるような反復から「鍾乳洞」が形作られていくように、人が自然の輝きや世界のうつろいに向き合った時に生まれる心象が、少しずつ堆積して色の名前となる。
余白というのは、詰めて詰めていくものなんですね。すかすかの空間ではなく、内容物はわずかでも、その周辺の緊張した空間に拮抗する存在感を持ってそこにある。バランスがいいから空けておくとか、カッコいい空隙をつくろうとかいうことではない。
人間は、世界を四角くデザインしてきた。有機的な大地を四角く区画し、四角い街路を設けて、そこには四角いビルを無数に建ててきた。── 見渡してみると、自然のなかには四角はほとんどない。