引用元:倉本聰 界隈
今回は有名な「倉本 聰」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている有名人「倉本 聰」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?
倉本 聰とは
1934年12月31日生まれ、東京都渋谷区出身。日本の脚本家・劇作家・演出家。本名、山谷馨。
1959年、ニッポン放送に入社。
1963年にニッポン放送を退社。その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ『勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。
1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。
1986年、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開される。
2010年4月、北海道教育大学旭川校で演劇講座を監修。
2017年の富良野GROUP特別公演『走る』を最後に演劇活動から引退を表明し、脚本制作に専念。
倉本 聰の名言集
僕は「そうは言っても」「前例がない」という言葉が大嫌い。そんなことを言っていたら、世の中も自分自身もチェンジすることなんてできません。「前例がない」ことをやるからこそ「新しい挑戦」になる。
根底で考えろ。演じることも書くことも、生きることも、すべて常識で考えるな。
「富士山に登った」と言う人は多いけれど、たいていは5合目からスタートして登ったと言っているわけです。でも、本当に標高3776メートルの富士山を登り切ったと言うなら、僕は駿河湾から歩き出すのが本筋だと思う。根本が進化し、社会基盤になり、常識になっていく。5合目が常識になってしまうと、人はこの「そもそも」の部分、根本を考えなくなる。それが僕は怖い。
物を作る人間には、ふっと神様が降りてきてくれる瞬間があるような気がします。でも、その前に技術は磨いておかないといけません。ひらめいたときに、それを具体化する能力を、技術として持っていないといけない。
もしも君たちがなくしものをして、それがどうしても見つからなかったら、富良野に探しに戻っていらっしゃい。残雪の溶けた熟地のぬかるみに、君らの探しものは転がっているはず。
何か人より優れたものを持ちたいと思ったら、やっぱりどこかで無理しないといけないと思います。かなりの無理をしたから、他の人よりも少し前に進めたんだと思うんです。
問うべきは、「自分は何のために、何を目的にして生きていくのか」をはっきりさせることです。僕は、人を感動させたかった。びっくりさせたかった。それが、僕の人生の目的なんです。
こんなふうに世の中の人が無責任に何でもかんでも言う世界は、これが自由な世の中だとしたら、自由の履き違えもいいところ
今はテレビもストーリーを追うものばかりになっていますが、僕は人間を見たいから、人間から入る
現代社会は「生きること」の原点を支える要素や精神の立ち位置を隠し、目先の経済効率のみが重んじられているようです。そして、強大な力を持ってしまったお金の有無やその量で、社会活動が判断されるようになってしまったように感じます。
人間が生きていくために必要なのは「酸素」、「水」、そして「食べ物」です。これをしっかり自力で確保することは自身の責任として果たすべきことではないでしょうか?
僕たちは今、お金のもたらす影響力とその意味を根本から考えるタイミングに来ているように感じています
視聴率20%の場合なら約2千万人、その人たちすべてに感動を与えるためには、見てくれる方々の位置まで目線を下げる。自分の置き場所を低くすることが大事なんだと教えられました。
僕たちが真の意味で世界と向き合うには"心にストンと落ちる"、五感で納得できる方法をとらないとダメなんじゃないでしょうか。心に響かない限り、結局のところ本当のコトは見えてこないと僕は思うんです
僕はワープロもパソコンも出来ません。新聞もとってはいません。でもそれを恥ずかしいとは思わないし、時代に遅れてしまうという恐怖も持っていません
物事の全体を俯瞰する視界を持ち、目の前の状況を自分にしっかり引き寄せて、"私ごと"として考える姿勢から始めてはどうだろうかと思います
物事の本質を見極める上で最も重要な、ゼロからスタートするという基本姿勢が欠落してしまっているように僕には見えるんです。
時代と共に流動し、変動する"常識"のレベル、いわゆるその時点の既成事実から議論が始まり、その背後にある因果関係や根本的な話などが一切飛ばして語られることが多過ぎるように感じています
最近は物事を論じる際、その原点から考えるという基本的な姿勢があまりにも軽視されているように感じます
報道でも政治でもなく、エンターテインメントにしか作り出せない「感動」があると思っている。僕の活動が止まるのは、まだまだ先でしょうね