少しでも手を抜くと「え? お前、まだその映画見ていないの?」とか、「その本、読んでもいないで酒飲んでいるのか、愚か者が」って具合に小馬鹿にされてた。そんな情況の中で、本当に胸を打たれ、血が騒ぎ出す作品が人づてに伝えられ、個々の価値観が互いに抗いながら、刺激されることになっていったのです。
映画も「作家の作品」じゃなくて「○○印の商品」となり果てて、“こんなに凄い至芸があります”ではなく、“こんなモノが皆にウケています”と煽り立てるしかなくなった。結果、同じ流行りの服や靴を競って買って、同じ流行の音楽を聴かないと安心できないような人が増殖し、多数から支持されるものが良いモノという勘違いが生まれて、ただ人が群がっているだけで、少数が好む価値がどこかに埋もれてしまってることさえ、忘れてしまったんです。それを見つけよう、探そうとしなくなった。人が均一化して、そのぶん、文化に怠惰になった。
本来なら、人間という生き物は“掘り出し物の至宝”や、知らないコト、モノ、ヒトを知る“真理の探究”が好きなはずですが、新しいものをチャレンジするためには投資も必要だし、慎重になるのもわからなくはない。読み比べたり聞き比べたりしながら価値構成をしていく習慣もなくなっているのです。
正しい価値、これぞ“宇宙の真理だ”というものを伝えてくれるガイドも必要なのに、目の前にあるのは広大な“アマゾン”の河口だけ。アマゾンって、あのamazonもですよ(笑)。 アマゾンの河口なんて、東京から小田原ぐらいまでの距離があるから、ものすごい数の本や音楽や映画の情報がある。
「映画この100本」みたいな棚卸し特集が組まれることもあるけれど、いつも同じものばっかり。その時点でお終い、見限られてる。価値を見いだせるのは、101本目からなのに。「映画芸術この5万本」くらいになれば、ガッツリ見てみようと思うけどね。ボクも商業映画作ってるより見てる方が愉しいし(笑)。
これも人間が市場原理に縛られ、コントロールされていることの一つの表れでしょ。皆から支持を集める“売れ線”の棚だけしっかり整備されていて、価値があるにも関わらず支持されないものは放置され、さらに探しづらい状況に陥っています。
皆がおとなしくなってしまったのは、簡単に言えば、政治や企業が人の心を制御している「統制社会」となってしまったからです。原発の反対運動で、15万人もの人が国会周辺に集まり、沖縄じゃ10万人がオスプレイ配備反対に集まったというのに、何も起きない。60年代の安保闘争の時代から、人々の間ではしっかりムーブメントは起こっていたんです。
決して感傷的なナショナリズムを掲げるつもりはないですが、僕はメイド・イン・ジャパンのパソコンを、値段が高くても購入してます。全く壊れないんだから(笑)。要するに市場原理を追うしかない新資本主義などというマヤカシから脱却し、自分の物差しで判断すべきだということです。
企業が掲げるCSRも無理だらけだと思います。なぜなら市場原理主義と社会貢献の両方を同時に実行できるわけがないからです。環境を配慮したエコ製品を製造する工場では、大量のCo2を排出しているし、相当量の電力を使用する。そうなればまた原発も稼働させる。そんな矛盾が生ずるものを、単純に信用すべきではないし、人権の擁護も地域貢献も同じです。
原作本を映画化するということは、小説の中に描かれている空気やノリをしっかりと共有できるかどうかにかかってました。疑問がそこに生じて解けないままなら、映画化などできません。世に出ている原作映画化作品が必ずしもそうであるかは大きな疑問ですが、これは、なるべく原作を大事にした上で映像化を進めました。
「こうなったら、こうなる」というリアリズム表現にまったく矛盾がない。しかも、それが初めから終わりまで簡潔なハードボイルドタッチで綴られてることに魅せられました。ただの犯罪サスペンス小説ではなく、そこには、市井の徒である人の本質が描かれていたのです。
80年代以降、まったくリアリティが感じられず、辻褄の合わない小説ばかりが世の中にあふれ始めたころに、高村薫さんが登場し、鮮烈な印象を受けました。この原作の胸を借り、素晴らしい役者たちと共に心臓が高鳴る仕上がりになったことに感謝しつつ、この孤高の無頼漢たちの大奮闘ぶりにつき合って貰えたら嬉しいですね。和製フィルムノワール(暗黒映画)ってところですか。
差別とかヤクザ社会を昭和史と共に見つめてみることが、今僕がやることだろうと思ったんです。戦後の欲望の昭和を見直した方がいいんじゃないのと。反面教師でいいから、なにかのヒントになればいい。僕も『仁義なき戦い』からたくさんのことを学びましたから。
簡単ですよ、そういった周辺社会が目の前にあるから。社会の中心部には実も何もなくて空洞。ただ権力があるだけ。周辺に追いやられている、ギリギリのところで生きざるを得ない境遇の子や大人を僕は小さい頃から見てきたし、見つめたい。そこにこそ本当の日本の庶民史があるんじゃないかな。だから必然的にアウトローものが多くなりますね。
3000人以上の中から選びました。主演のマツくん(松本)は以前紹介されたんですが、彼は昭和の顔をしてるよね。「オーバーな演技さえ止めてくれれば」と伝えて現場に臨ませました。どこかで見てきたような大仰な演技はダメだと。しっかり応えてくれました。
デスクが隣なのにLINEで会話していたり。目をそらさないで話をしろと。現場でもよく「目を見て話そうぜ」と言っていました。芝居でも「凍りついたように相手の目を見ろ。それがリアルだよ」と。
主人公の井藤正治が子供の頃、1956年から物語は始まっています。「もはや戦後ではない」と好景気だったと言われますが、朝鮮戦争特需なんてひと握りの企業家が潤っただけでね、まだまだ国じゅうが貧しかった。僕らより、ひと世代上の設定なんだけど、実際に子供の頃に見ていた風景ではあるね。その中でも、あの頃食べていたモノが今でも強烈に心の奥底に残っている世代でもあるんです。
しっかりして生きないと死んでしまうと本気で思ったね。映画の中で繰り広げられる、任侠なんていう難しい思想とは関係なく、リアルな男たちの生き様の描写がたまらずに、どんどん嵌っていったんだよ。映画を始めた時から、いつかあんな映画を撮ってみたいと思っていて、この「無頼」で思いが叶いました。
今を生きる若い子が本当にかわいそうになる時があります。そんなキリキリした社会では、生きていくのに必死で、ぼんやりした夢すら持てないんじゃないかな。こ
当時配管工のバイトをやっていて、「お前、バイトばっかりだな。もう役者なんかやめてカタギになれよ」とか、そんな時代。「役者なんか辞めて、まともなことやれ」って言ってたら、(木下さんが)「何がまともなことなんですか?」って(笑)