だれもが少しだけ強くなってその違う世界に向かうのだ。
文は人なり、という言葉があるが、平成風にいえば、携帯メールもまた、人なり、である。
家族でしか作れない関係のなか、たがいを理解し合っていくのに越したことはないのだろう。そこに誤解があったとしても。わかりあえなさが残ったとしても。
加齢してから気づいた我がことに、愛情深すぎる、というのがある。何かを好きになると、まっすぐにひたむきに心身のぜんぶで好きになり、なおかつ、相手からも同様のものを求める。その過剰さに若いときは気づかず、気づかないながら、なんとか隠して過ごしてきた。しかしいくら隠そうとしても、どこからかにじみ出て...
私たちだってこの世界しか知らないが、宇宙やあの世や、現実とは思えない様相の場所を夢に見る。飛んだこともないのに飛んでいるし、いったこともないのに夢に見た場所がグアムだとわかることもある。
人というものは不思議なもので、いくらすねていようとも、ぐれていようとも、すさんでいようとも、怒りや憎しみでがんじがらめになっていたとしても、ふつうに日を送ることができる。
もともと私は心配性である。あり得そうなことも、まずあり得ないだろうことも、つねに想像しては心配している。
思い返してみれば、言葉の通じる人とのお別れのときだって、そんなふうに整然と話せたことなんかなく、その人がしてほしいと望むことを正確にしてあげられた自信などまるでない。言葉が通じたって苦い悔いばかり。そしてかなしみが減じることはない。
うしなったものを取り戻すことはできない。...だからあらたに作るのだ。やると決めたら、動き出すよりほかにない。
絶望はない。絶望している余裕なんて、ないのだ。
あるものごとはどうしようもなく変わるが、その変化のなかで変えずに持ち続けられるものが、ある。旅において私は何か失ったが、昔は得られなかったものを、きっと得ている。
記憶というものは記録と違い、個々ひとりひとりの持ちものなのだなあと思う。おなじ場所を訪れおなじ景色を見ても、私と同行者の記憶はきっと異なっているのだろう。
マニュアル対応というのは、善し悪しはともかく、新しい日本人の個性だと思う。こんなにマニュアル対応がうまい国民は、世界広しといえどもそうそういないと思う。
マニュアル対応ではないと、面倒なことがたくさんある。旅していて、ああ面倒だ、と思うことは、だから多い。
面倒とはつまり、感情の揺れなのだろう。そのぶれが大きければ面倒も大きくなる。
旅というのは、空港に着いたときに終わるのではなくて、周囲の景色が、わざわざ目を凝らすこともない日常に戻ったときに終わる。
旅には親役と子役がいる。年齢や関係じゃなく、質だ。
旅というのは、恋愛体験くらい個人的なので、人の旅話を聞くと、自分の経験とのあまりの違いに驚くことがある。
旅はもともと自由なもののはずなのに、気がつけば、不自由な旅をしていることに思い当たったりする。
ひとり旅ならば、自分の感覚しかない。何をうつくしいと思い、何をきたないと思い、何をおいしいと思うか、自分自身を信じるしかない。そうすると、自分ですら知らなかった、まったく新しい自分に、出会えることも多いのである。旅の記憶も純度が高まる。それは、ひとり旅の無駄さ、面倒さ、心細さ、すべての欠点にもまさる重要なことなのだ。