おもしろくない。そんなの損だ。嫌なことは考えない。とにかくおもしろいことを探す。
病気になったらなったで、そこで楽しみを見つけ、おもしろがっている。
やりたくないけれど、やらなければならないことは趣味にしてしまえばいい。というのは、我ながら大発見。
つまらないなら、どうすればおもしろくなるかを考え、自分で工夫してみるといい。そうすると、どんどんおもしろくなっていく。
危難と地獄、辛酸のなかに重要な何かがある。長い人生では、一回や二回は地獄を通過したほうが、かえっていいのかもしれません。
つらくても、さびしくても、うなだれて生きるのは好きじゃない。
人生、先のことはわかりません。僕も兵隊に行ったり、病気をしたり、将来に絶望したこともあったけれど、それでも今日一日、今日一日と生きてきました。それが重なって、いつのまにか92年がたちました。
あんまり深く突き詰めて考えない。「今日を楽しむ」と考えていけば、何とかやっていけるんじゃないかな。
人生、何があっても、これで終わりなんてことはないのだ。
今の日本も昔の日本も同じ。絶えず激動しているんだ。世の中というのは、決して静かにならない。その中で、我々は日々、生きていくわけです。一寸先はなんだかわからないけれど、生きていくのが我々です。それが人生なんです。
一瞬を一生懸命生きるということと、目の前にいる人を喜ばせる。毎日、それをやっていきます。それしかありませんね。きっと、これからも。
善だけの純粋すぎる心では、精神的な抵抗力もなく、社会に出て生きていけない。他人の心も理解できないアンバランスな人間になってしまう。
人間というのは、やはりユーモラスでなければいけない。ユーモラスとは「ヒューモア」。つまり「人間的」であること。苦しいことやつらいことも、ユーモアで乗り切るのが「人間らしさ」なのではないかな。
笑う筋肉が動くと、笑う心も動くのです。
「悲喜こもごも」という言葉がありますが、まずは悲しみが先にやってくる。人間が生きていることを感じるのは、悲しいときのほうが多いのです。
病人になっても泣いているのではおもしろくない。僕は病気になってあんまり悲しんだりはしない。だって、損だから。
悲しみがなければよろこびはない。不幸にならなければ幸福はわからない。空腹のときに食べるラーメンがどんなにおいしくて、幸福なのかは実感できない。
健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。
お腹をすかせて一杯のラーメンがとてもおいしければ、それは本物の幸福だ。十円には十円の幸福があり、一億円には一億円の幸福がある。インスタントラーメンも、シューマイ弁当も、アンパンも、ときにはパリの高級レストランの食事よりおいしい。
絶望の隣は希望です!