その場でふりかかってきたことを、精いっぱいやって、自分にできるかぎりのいい音楽をすることによって、いろんなことがなんとか運んできた
できる者ではなく、最低の者のレベルを上げることこそ教える者の技である
東洋人でもモーツァルトを真のところでつかまえられると。ベートーベンも本当に真のところでつかまえられると。ドイツ語のアクセソトはつかないけれど、オーストリアのザルツブルクのアクセントはつかないけど、真のところではつかまえられると。
音楽の本質は公約数的なものではなく、非常に個人的なもので成り立っていると思う
カラヤン先生も、レニーも、8分音符も16分音符もぴったりです。
自分が年をとってきたからかもしれないけれど、大事なものとか美しいもの、美しいと言ってもただ見て美しいのではなくて、心に染みわたる美しさとか、心を打たれる美しさというのは、少し悲しみの味がするのよ。
59年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで一番になってカラヤン先生に弟子入りしたけれど、私、言葉がわからないでしょ。大変でした。
できる者ではなく、最低の者のレベルを上げることこそ教える者の技である。
本当の音楽をしていれば、絶対に報われないということはない
今は英語ができれば、世界中ほぼ通用するでしょ。ほんの少し前までは、フランスではフランス語、ドイツではドイツ語を喋れなくてはいけなかったけれど、今はパリやベルリンでも、みんな英語。
私はいつも「外国を見たほうがいいよ」と言ってはいるけれど、1週間くらい観光して帰国するというのはねえ。できることなら、じっくりと勉強してほしい。まあ、1週間でも、行かないよりはましかもしれませんけれど。
ある意味酷いですね、指揮者の人間性を見に来ているっていうことで。それは指揮者だけじゃなく、それを演奏する一人一人も。一人一人がそれを知らなかったら、出てこないですからね。
初演というのは、ものすごく責任があります。というのも、作曲家が、自分が書いた曲を初めて聴くわけですから。
悲しさが、震えちゃうぐらい悲しいのか、それともさびしさが入っている悲しさなのか。あるいは、ほんとにもう悲しいのが中に入っちゃって外には出てこないのか、泣いちゃうぐらい悲しいのか……。
レニー(バーンスタインは「レニー」と呼ばれることを好んだ)はね、感覚的なの。指揮する姿は典型的なアメリカ人。見た目はおおらかです。ところが、演奏内容はディテールにいたるまでピタッと正確。素晴らしい。びっくりしますよ。
これまで生きて、悲しみを味わった経験。悲しみは、人から教われないからね。自分でわかんなきゃ、わかんないわけだから
雑用を全部僕がやっていた。助手というより丁稚(でっち)ですね。
音をただ並べるだけでは音楽にならないわけで、どうやって作曲家が紙に書いたものを音楽に戻すかと、ここのことですよね
テレビで見たり、インターネットで調べたりで世界を知った気持ちになってしまう。
先生(恩師の斎藤秀雄)が病気で死ぬことをみんな知っているから、みんな泣きながら弾いているの心の中で。