あらゆる主義は、宗教的であれ政治的であれ、愚劣です。というのも、それは概念的思考であり概念的用語であって、余りにも不幸なことに、人類を分割してきたからです。
自分はインド人だとかイスラムだとキリスト教徒だとかヨーロッパ人だとか、他の何人であれそう呼んだ時、なたは暴力的になっていまなぜ暴力的になっているのかわかりますか?自分を他の人類すべてから切り離しているからです信条、国籍、伝統によって自分自身を切離した時暴力が育まれるのです
あなたは社会とその文化、宗教といったものの巨大な重圧の中から生まれてきた。そして経済的、内面的にあなたを駆り立てているのはそのような重圧なのである。
ひとは生まれによってバラモン(カースト最上位)になるのではない行いによってランとなるのだ
我々が内的に依存しているとき、伝統は我々に大きな支配力を及ぼします。そして伝統の線にそって考える精神は、新しいものを発見できません。順応によって、我々は凡庸な模倣者、冷酷な社会という機械の歯車となります。
私が自分自身を理解するとき,私はあなたを理解しますしその理解から愛が生まれます
新たなるものが現れるためには、愛や神、文化あるいは共産党政治局のイデオロギーなど、諸々の表象や言葉の総体としての思考の全構築物を全的に否定しなければならない。新たなるものは古いパターンに体よく収まったりはできないのである。
恐れてない人は攻撃的ではありませんどんな種類のものであれ恐感を持たない人は本当自由平和的な人です
私たちが社会と呼ぶ環境は過去の世代の人々のよって創られました。それは私たちの強欲、所有感、幻想を助けるので、私たちはそれを受け入れます
私たちの問題はどのようにして生と出会うかではなく、どうすれば心が、条件付けとドグマ、信念でいっぱいになったその心が、自らを自由にすることが出来るかということです。生と出会えるのは自由な心だけです。
愛があれば、あなたがどんな事をしようとそれは正しい行動だ。決してその人生に争いごとは起こらない。だから、嫉妬や恐怖、争いごと、心に痛みもたらす関係は、愛あるところにはありえないということ、愛あるところには決してありえないということをしっかり分かっていることが大切だ。そして誰もがそこから自由になることができる。それも明日にではなく「今ここで!」敵は他人なのではない、敵はあなた自身に存在しているのだ。
人と音が別々でなく、音の一部であるときにはじめて、その美しさが感じられるのである。瞑想とはいかなる意志的行為または願望の働きをも交えることなく、あるいはまだ味わったことのない物事の快楽を求めたりすることなく、そのような分離に終止符を打つことである。
ものごとは努力によって解決しない
あるがままの自分を、変えようとすることな理解し始めるならそれは変容し始めます
精神を時間から空しくすることから真実の沈黙が生まれ、そのことを悟ることはすなわち行なうことである。それゆえ見ることと行なうこととは何の区別もない。見ることと行なうこととの間隙に葛藤や不幸、混乱が生ずるのである。時間を持たないものは永遠である。
日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見る者が時間に縛られているときだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれる―それが我々の社会の実情なのである。
瞑想は根であり、幹であり、花であり、そして果実である。愛の行為とは全的な把握にほかならない。
生きるとは、正しいことを独力で見つけ出すことですそして自由があり、あな自身の内なる、絶えざる革命があるときに初めてこをすることができます
安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。
私が無事でいたいと思ったり、銀行預金やいろいろな楽しみを持ちたいと望んでいる限り、また生理的、あるいは心理的に何かになりたいと思っている限り、必ず苦しみがあるのです。私が苦しみを避けるためにやっていること自体が、恐怖と苦痛を生み出すのです。