(子供を亡くした)そのとき、涙が出てたまらなかった。涙が出なくなるのに三年はかかる。私は自分の体験から、子供さんを亡くされた方には、「三年は泣いておあげなさい」と言っている。親が子を亡くした悲しみは、十年や二十年たったとて決して忘れられるものではないし、三年間は泣きの涙で暮らすものである。
(楠木の若木を記念植樹した際に一鍬一鍬土をかけながら)枯れなよ、大きくなれよ、千年も万年も生きよ
天心はよく、芸術の表現は、”理想”にあるということをいったが、その”理想”をいってくれる彫刻家は田中だけだと語っていたという
子供たちがかなり大きくなったころであった。私の仕事も次第に認められて、内弟子が十人ほどいた。その中に胸の悪いのがいた。本人は、自分が胸の病いであることを知っていたと思うが、彫刻がどうしてもやりたいと思うあまり、帰されるのがいやさにそのことをかくしていたのであろう。子供たちは、その弟子と一緒によく遊んだりしていたが、そのために不幸にも発病した。
(約20年間かけて制作した大作「鏡獅子」を、国が2億で買い上げようとした際)お金はいりません。この作品は私一人で作ったものではなく、六代目菊五郎さんと2人でこさえたもんです。お金をとったら、あの世で六代目さんに会ったとき、あいさつのしようがないですよ。
長女は十八で発病、二十歳でこの世を去った。惜しい娘であった。病床に臥すまで、仏英和高等学校(現・白百合学園)へ通っており、フランス語が得意だった。
わしもとうとう満百歳。まだまだ仕事が残っている。朝から工房 晩飯がうまい 野葉のかきあげ小えびが二つ 葡萄酒ぽちり 粥一椀 とろりまぶたが重くなる ベッドにごろり たかいびき 夜中に小便2、3回 あさまでぐっすり夢を見ず 死ぬこと忘れた田中団兵衛
「お父さんは禅をやっている。それで禅の念仏になってしまうから苦しいんだ」
この言薬を聞いたとき、二年間も寝ていると、こんなにも利巧になれるものかと驚いた。病児に、父の境遇を看破されたのであった。この子は、七転八倒し、窒息死ともいうべき死を迎えた。言葉では言いあらわせぬ苦しみだったであろう。人間の死とはこんなにも苦しいものでぁるのかと教えられる命終であった。
(上京してから立て続けに作品が売れた田中は)東京って、なんて素晴らしいところなのだろう!
こだわるな、こだわるな。人間本来、住むところなし。どこに住んでも心は一つ。仕事ができればそれでよい。
(文化勲章をいただけるなら)鏡獅子を作ったときに頂戴出来たら一番うれしかったのだが
しあわせとは まどろみであり、不幸とは めざめである
東京で折角仕事を進めかけると、ひどい脚気症に罹った。命辛がらで遠州の我家に帰って来た。失意どころか旗揚げもせずに帰ったのだから、周囲の空気は冷たい。唯一人労わってくれる者もない。
夫婦喧嘩もよくやった。ところが、子供たちが病気になってみると、治療費も転地費も要る。このときばかりは、恥をしのんで生まれてはじめて、ある日本有数の富豪のところへ借金に行ったが、ていよく断られた。
まだまだ作りたい作品がある
悲しいときには泣くがよい。辛いときにも泣くがよい。涙流して耐えねばならぬ耐えた心がやがて薬になる。
子羊の寝姿に興味を覚えて作った
私は言葉もないほどがっかりして、家へ帰るとばったり倒れてしまった。何等かの因縁があり作品は四年か五年後に届けますからという条件つきで、これなら大丈夫と思う人のところへ行ったのだから、その打撃は大きかった。しかし、そのあと九人ほどの人から、当時のお金で二万四、五千円ほど拝借でき、そのお金でどうやら子供の治療にあてられたのであった。
どうか皆さん、あまり私のところを訪問しないでください。私はまだ制作もしたいし勉強もしたいので、ご好意に甘えるならば、どうか仕事の邪魔をしないでください。
亡くなった子は死ぬ間際、-自分たちの分も生きて、作品をたくさんつくってくださいと言い残して息を引きとったが、その言葉は今も私の耳に残っている