引用元:Wikipedia
今回は有名な「平櫛 倬太郎」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「平櫛 倬太郎」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?
平櫛 倬太郎とは
平櫛 田中(ひらくし〈又は ひらぐし〉でんちゅう、1872年2月23日〈明治5年1月15日〉 - 1979年〈昭和54年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は平櫛 倬太郎(ひらくし たくたろう)。旧姓は田中。井原市名誉市民(1958年)、福山市名誉市民(1965年)、小平市名誉市民(1972年)。亡くなった時点では男性長寿日本一の人物だった。
1972年(昭和47年)、田中の出身地である井原市が主催し平櫛田中賞を設けた。100歳を超え長命であったが死の直前まで創作を続けたという。没後、田中のアトリエには30年以上続けて制作できるだけの彫刻用の材木があった。この材木を利用して、井原市の田中美術館に上野桜木町のアトリエが再現された。田中は1979年(昭和54年)、東京都小平市の自宅で108歳の長寿で大往生した(享年は数え年。満年齢だと107歳)。
平櫛 倬太郎の名言集
不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから
人間の死とはこんなにも安らかで美しいものであろうかと思われる臨終であった。
実践実践また実践。挑戦挑戦また挑戦修練修また修練。やってやれなことはない。やらずにできわけがない。今やらずしいつできる。わしがわらねばだれがやる。
今日もお仕事、おまんまうまいよ、びんぼうごくらく、ながいきするよ
あるとき、思い余って天心に「先生、彫刻は売れません。どうすれば売れますか」と相談した。「みんな売れるようなものを作ろうとする。だから、売れないのです。売れないものを作りなさい。そうすれば、必ず売れます」という天心の言葉にハッと悟りが開けた。
先生はすべてがそのように人柄が大きい感じの方でしたが、なさることも大きかったのでございましょう。後年作品を批評していただいた時も、決して細かいことはおっしゃいません。ただ荒く、つまんだようにポツンと批評してくださるそれがドシンとくるのです。
亡くなった子は死ぬ間際、-自分たちの分も生きて、作品をたくさんつくってくださいと言い残して息を引きとった
貧乏は骨の髄までした。三十四歳で妻・花代をめとったから、晩婚といえる。そのころ平櫛は、二軒長屋のひとむねを借りて住んでいたが、作家、彫刻家の女房などというものは貧乏なもので、世帯のやり繰りには、人一倍苦労した。
(岡倉天心に関して)ごく簡単な要領のいい暗示を与える方でした
「死苦、病苦、世間苦」をすべて味わった。
生活は貧乏そのもので、月四円五十銭の家賃が、どうしても払えない。コツコツ仕事に打ち込んではいたが、作品ができ上がっても、すぐに売れるわけではない。家主は、何度も家賃の催促に来たが、貧乏で払えませんと、十か月も家賃をためたことがあった。
(文化勲章伝達式にて天皇陛下から「一番苦心されたことは」と聞かれた際の返答)それは、おまんまを食べることでした
このお二人(禾山と天心)がいられなくとも、私は私なりに好きな彫塑の道を歩いたであろうが、それは今日よりよほど、傾向の違ったものとなっていたであろう。それほどこのご両人の影響力は強い
妻は、私の仕事にはほとんど無関係で、院の展覧会すら観に行ったこともなかったから、いっそう世帯の苦労だけが身にしみたであろう。七十七歳でこの世を去ったが、今思うと苦労のかけっぱなしで、かわいそうなことをしたと思うばかりである。
無理矢鱈にでも木をこなすことを根本にせなきゃいかんのです
私はこの娘をつれてフランスへ渡り、あちらの美術を観て歩きたいと思っていた。そのことは二人で堅く約束していたのだが、娘も心残りだったであろう。
私はかねがね絵に日本が、西洋画があるように、彫刻にも日本彫刻と西洋彫刻の区別があってよい、塑造と木彫は全然性質が違うものだと思っているんですが、、、
人間、貧乏は我慢できるが、子供に死なれるほどつらいものはない。私は三人の子供をもうけたが、上の子二人を結核で亡くした。
午前3時 起床、7時半 食事約30分(8時頃) 書道 10時−11時半、ティータイム まっ茶、正午 昼食、その後歩く練習、午後3時 おやつ、その後入浴、午後6時半ごろ 夕食、8時 就寝、すぐイビキをかいて寝る
(奈良の道具屋で偽物を買わされたと判明した際)えらいことをやるもんだねえ