(小林秀雄が「黙ることは正しいという思想がある」といったことに対し)たしかに東洋の思想の一番の問題でしょう。それは歴史感覚の欠如ではないか。
他者に対する忍耐とは、「他者のリズムを排して暴力的に自己のリズムを押しつけないこと」、他者の「成長ないしは成熟の過程を信頼すること」
日本にはいるときには、この門(日本音楽)からははいるまい。
私がたびたび試みたのは、道の最後まで進めなくても、ともかく道をきりひらくことであった。
なるほど・・・・歴史の否定・・・・・・ベルクソンの場合は、そこまでいっていないと思うが・・・・・。
基本的にハイデガーやサルトルと共通 する実存理解に立脚しており,ただ最後に神> を 要請した点で彼らとは違う
私自身あるいは私の存在の外部にあって、私であるところのものの深奥に根づいてはいない
文学自身の中に哲学的思想が深く滲透(しんとう)している現在、文学と哲学との間に何らの境界を設けることが実際に不可能
問題になるのは、私が自己の前に想定するチャンスについての算定、蓋然性に関するささいな実際的問題の解決にすぎない
われわれが価値と呼んでいるものは、 本質的に選択をゆるさない何ものかである
〈私は希望する〉を、現実にそれがかかわり合っているある種の状況から引き離すことは不可能である。希望ははっきり試練の枠内にあって、その試練に結びついている……
一次反省のレベルでは、哲学者は普遍的な客観的解決策を模索しますが、そのような解決策は、抽象化への移行において個人の経験が必然的に排除されるため、実存的接触のレベルでは適切ではありません。
希望は、それ独自の飛躍によって、最初に結びついたように思われる個々の対象を超越する抜きがたい傾向をもっている
人間の生活にはいくつかの重要な謎の領域があります。体と心の統一; そして、信仰、忠実さ、希望、そして愛の中心的な人間の経験(しばしば「具体的なアプローチ」と呼ばれる)。
(「うまくいく」ことの展望が可能なのは)もっとも内的な、いわばもっともそれそのものを生きられたかたちにおいて把握された経験にではなく、むしろ逆に、ある種の対立が緩和されるなり、ある種の全体的調和のなかに解消されてしまうに十分な距離をおいて眺められた経験に依拠する
人が人に贈れる最大のプレゼントとは良い思い出である
希望は、「人生が単に外側から眺められるのをやめたときに現われる直接的参与やかかわり合い」
まず自分が囚われ人であると認識する限りでしか、 私たちは希望をもっことはできないだろう。そしてこの隷属状態は病気や追放のごとく、さまざまな形で私たちの前に提示されている
(絶望とは)判断によって想定されたある種の運命の前に降服すること
自分の欲望に固着する場合には、希望をいだくことができない