西暦1900年代の偉人

【藤沢 周平】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:毎日新聞

今回は有名な「藤沢 周平」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「藤沢 周平」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

藤沢 周平とは

藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい、1927年(昭和2年)12月26日 - 1997年(平成9年)1月26日)は、日本の小説家。山形県鶴岡市出身。本名、小菅 留治(こすげ とめじ)。
江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。
長女遠藤展子は、エッセイスト。2010年(平成22年)4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。

参考:Wekipedia

藤沢 周平の名言集

【藤沢家の口ぐせ】
一、普通が一番。
二、挨拶は基本。
三、いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない。
四、謝るときは、素直に非を認めて潔く謝る。
五、派手なことは嫌い、目立つことはしない。
六、自慢はしない。

飯の糧にならないことが、心の糧になる。

8月15日の終戦のラジオ放送を、わたしは役場の控え室で聞いた。喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた。しばらくして、これからどうなるのだろうと思ったが、それに答えるひとは誰もいないこともわかっていた。

私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。

どうせ人生の本質はつらく、人間は孤独なぐらい百も承知している。

物をふやさず、むしろ少しづつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることができたら、しあわせだろうと時どき夢想する

青春は多分に愚かしい時期でもあるだろう。予科練の全員志願はそんな状況の中で行われたのだが、私がいまだに後悔するのはそのときに国を憂うる正義派ぶって級友たちをアジったことである。たまたま級長をしていて仕方なかったということもあるが、検査に合格した何人かは乗る飛行機もなくて戦後無事に復学したからいいが、何かがあったら仕方ないではすまなかったろう。

三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。

私自身当時の小説を読み返すと、少少苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。男女の愛は別離で終わるし、武士が死んで物語が終わるというふうだった。ハッピーエンドが書けなかった。

人間は後悔するようにできておる

昔は群れの中の1匹の羊であるより、孤独なオオカミでありたいとひそかに思った男たちが、あちこちやたらにいたような気がする。

『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んできた。北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない

この世の中に、自分のような人間を頼りにしているひとがいるということは、すばらしいことではないのだろうか。

一人の平凡な人間もドラマを持っている。こういう人に興味を惹かれる。

直木賞をとってもアマ四段の職場の同僚に負けており、なかなか腕が上がらない

それが出来なかったことを、それがし生涯の悔いとしております

普通の生活を続けていくことの方が、よっぽど難しいことなんだよ。

新兵衛は躱(かわ)し、受け流し、弾(は)ねかえし、ことごとく受けていた。

キラキラ光っているものはきらい

青春は多分に愚かしい時期でもあるだろう。予科練の全員志願はそんな状況の中で行われたのだが、私がいまだに後悔するのはそのときに国を憂うる正義派ぶって級友たちをアジったことである。たまたま級長をしていて仕方なかったということもあるが、検査に合格した何人かは乗る飛行機もなくて戦後無事に復学したからいいが、何かがあったら仕方ないではすまなかったろう。

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