時代と共に流動し、変動する"常識"のレベル、いわゆるその時点の既成事実から議論が始まり、その背後にある因果関係や根本的な話などが一切飛ばして語られることが多過ぎるように感じています
人間は自然に対して傲慢になり過ぎている。
脚本を書くことの最終目的は、金を得ることではなく、人様の心を洗うことである
スターというのは神秘なもので、「こいつが離婚した」とかいうのは、役者としてやること、一つの役をつくるのと無関係。そういうものに役者として左右されたくない。
最近は物事を論じる際、その原点から考えるという基本的な姿勢があまりにも軽視されているように感じます
テレビがどんどん僕から離れます。
報道でも政治でもなく、エンターテインメントにしか作り出せない「感動」があると思っている。僕の活動が止まるのは、まだまだ先でしょうね
視聴率20%の場合なら約2千万人、その人たちすべてに感動を与えるためには、見てくれる方々の位置まで目線を下げる。自分の置き場所を低くすることが大事なんだと教えられました。
何だかわからないけれど体中の内臓が連動して、自分の意図に反して鳥肌が立つとか、ワクワクするというのが感動なんだから
僕の生業とするシナリオライターという職業にあっては、登場人物が口にするセリフと裏腹に、本心何を考えているかを表現することが第一の目標で、その言行不一致をいかにビビッドに、ある時はおかしく、ある時は辛辣に描くことこそシナリオ書きの醍醐味なのである。役者もまたその延長線上にある仕事で、口にする言葉とは全く逆のことをその人物が考えているとするなら、そこをこそ演じるのが名優の技であって、セリフとは真逆のインナーボイスをうまく観客に伝えなければならない。
3・11後の日本は、ますます奇妙な国になってしまった、と感じています
人は他人から与えられることはうれしい。だが、与えることはもっとうれしい。いや、人に与えること、人の役に立っているという意識こそが、そもそも人間の生き甲斐なのではあるまいか。考えてみると自分の生き甲斐も、結局そこに尽きる気がする。
電化製品にどっぷりと浸っている子供達が、電気も水道もない生活の中に放り出されたら、何をどう感じ、どう動くのか?それを描いてみたいと思った。それが「北の国から」の原点でした。
物事の本質を見極める上で最も重要な、ゼロからスタートするという基本姿勢が欠落してしまっているように僕には見えるんです。
何か人より優れたものを持ちたいと思ったら、やっぱりどこかで無理しないといけないと思います。かなりの無理をしたから、他の人よりも少し前に進めたんだと思うんです。
「豊か」という言葉を辞書で引くと「リッチにして幸せなこと」とある。幸せというのは今に満ち足りていることです。日本は、リッチではあるけど幸せがなくなっちゃった。
もしも君たちがなくしものをして、それがどうしても見つからなかったら、富良野に探しに戻っていらっしゃい。残雪の溶けた熟地のぬかるみに、君らの探しものは転がっているはず。
問うべきは、「自分は何のために、何を目的にして生きていくのか」をはっきりさせることです。僕は、人を感動させたかった。びっくりさせたかった。それが、僕の人生の目的なんです。
「富士山に登った」と言う人は多いけれど、たいていは5合目辺りまで車などで行き、そこからスタートして登ったと言っているわけです。でも、本当に標高3776メートルの富士山を登り切ったと言うなら、僕は駿河湾から歩き出すのが本筋だと思う。つまり、いつの間にか5合目スタートが常識になってしまっているわけです。物事には「そもそも」という根本があります。根本が進化し、社会基盤になり、常識になっていく。5合目が常識になってしまうと、人はこの「そもそも」の部分、根本を考えなくなる。それが僕は怖い。
残りの人生で何ができるかを、常に考えています。