西暦1900年代の偉人

【伊丹万作】の名言集|名言まとめドットコム

元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。

真理は必ずしも常識と一致しない。

ある時間内の訓練が失敗に終つたとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。

団体行動によつて片づくものは芸術ではない。それは政治である。団体行動によつて一歩でも前進するものは芸術ではない。それは政治である。芸術が政治を手伝うことも時によつては悪くない。しかし、政治効果はどこまで行つても政治効果であつて、芸術効果ではない。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

「火事」でも灰を作るくらいのすべは知つている。

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

手は顔面以上に表情の豊富なものであるが、まずい俳優はこの二本のぶらぶらしたものを持てあまして、一刻も早くどこか人の気がつかないところへ隠してしまおうとする。

リアリズムトハ、本当ラシキウソデアル。シンボリズムトハ、ウソラシキ本当デアル。

もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。

近ごろ人の心に余裕を見出すことができなくなつたのが私には何より悲しい。それはどんな物質的欠乏よりも惨めだ。心の余裕は物質の窮迫を克服する力を持つている。逆境のどん底に楽天地を発見する力を持つている。

百の演技指導も、一つの打つてつけな配役にはかなわない。

要するに我々は原則として自分にできない動きを人に強要しないことである。自分には簡単にできると思つていたことが、動いてみると案外やれないことは珍しくない。

いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

(遊ぶことの目的はと問われ)退屈しないことです。

ごみ:座敷のごみが玄関のごみを軽蔑した。

電力でプールへ水を入れるモーター小屋がある。子供がこれにホジョジャン小屋という名をつけた。モーターの動く音がホジョジャンホジョジャンと聞こえるのだという。

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