芸術と人格は、深く相通じている。偉大な芸術には、偉大な人格の輝きがある。また、偉大な人生は、それ自体が、偉大な芸術である。
権力が暴走し、猛威を振るうときには、必ず思想や信教への介入が始まる。
いっさいの思想は地球上の生命を守り抜くためにこそあるべきだ。それを脅かす思想は、断じて受け入れるべきではない。
政治や経済だけの関係では、どうしても力の論理、利害の論理に流されてしまう。文化の交流、教育の交流こそ、人間と人間、民衆と民衆を揺るぎなく結びつけていく普遍的、永続的な力となる。
愚痴よりも行動、諦めよりも挑戦、臆病よりも勇気、その振る舞いに仏法がある。
写真は”世界語”である。言葉は理解できなくとも、写真を見れば、すべてがわかる。心を分かち合うこともできる。
人の大事な命を預かって、いいかげんな指導をするのはおそろしいことである。
自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。人を幸せにした分、自分も幸福になる。
国のために人間がいるのではない。人間のために、人間が国をつくったのだ。
歌には、人を前向きにする力がある。歓びの歌、旅立ちの歌、革命の歌、愛の歌―――。一曲の歌がもつ力の大きさは、時として計り知れない。
誓いとは、人間だけができる。いわば人間の人間としての証だからだ。
宇宙は、人間の心を高らかに啓発する。そして宇宙は、私たちを詩人にし、哲学者にしてくれる。
頭だけで考えても、多くは観念論となり、大衆の心とは一致しないものだ。
”偉大な人”とは、平凡であることの偉大さを知った人のことである。
会合でうまく話せたからといって、自分のことを大したものだと思ったら、大間違いです。青年を育てる人が偉いのです。
仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教徒である前に、人間である。
お世辞をつかう者に乗せられたり、意見をいう者を嫌ったりしたのでは、人材は発見できない。
立派そうに見せるために苦労することは、その人の力のないことを人にすすんで示すようなものである。
苦しんでいる人々を、どう救うか―――ここにこそ、人類をリードする一切の哲学や指導者論のエッセンスが凝縮している。
「自分が広宣流布をするのだ」という強い一念を持つことだ。役職とか立場ではない。