私は貧乏の中に育ったが、家は赤貧洗うが如しという程ではない。両親は小さな餅屋をしていたが、後に飲食店を営んだ。しかし上級の学校に進学させてくれる余裕はなかった。こういう家庭は案外多いのではないかと思う
若い時からの文学志望者でない自分には文学修錬の苦労の時代がなかった
わたしは年来、万年筆としてはモンブランを専用にしている。万年筆はわれわれにとっては手の一部で、調子が悪いと仕事ができない。手に万年筆があるのを意識しないくらいにスムーズなのが理想的だが、モンブランはだいたいこれに応えてくれている。それで、わたしの机の中にはモンブランだけが十本ばかりある
私には時間がないんだよ。出発が遅かった私には、書きたいことがヤマのようにある。人生が足りないんだ
人生には卒業学校名の記入欄はない
占領当初の被追放者(国家主義者・戦争指導者)は、現在では完全に蘇生し、政界、財界、管界、あらゆる所で安楽に活動をつづけている。「赤」の烙印を捺された(レッド・パージの)労働者は「永久追放」であり、アメリカの占領政策として最初に追放の目標に選んだ「黒い」指導階級は、そんな烙印などとうの昔に消してしまって納まっているのである。
私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。
文学には純文学と通俗文学の二つしかない
自分は努力だけはしてきた。それは努力が好きだったからだ。思うように成果はなかったけれども、80歳になってもなお働くことができたのは有難い
(編集者に)木俣君、アルバイトでもなんでも、若い使い走りの子の名前は必ず呼んであげなさい
私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった
人間、どんなときにも、何か心のより所をもつ事が大切だ。私は、いつかは小説家に・・・
資料集はたとえ商売にならなくても、大切なものは世に還元すべき
推理は推理、真実の追及は別になければならない
疑問のところをとらえて、それを深く突っ込む。だから調べていく。探索していく。これがまた、自分の好奇心を満足させるわけです。
最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった
鷗外流に史実を克明に淡々と漢語交じりに書くのが「風格のある」歴史小説ではない。史実の下層に埋没している人間を発掘することが、歴史小説家の仕事であろう。
それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。
私は小説家志望ではなかった。20歳前後のころ、多少そういう気持ちはあったが、これはその年ごろだと誰しもあることで、とるに足りない
私のマドンナ像は、いくつかの条件がある。まず、その女性との交流はプラトニックなものでなくてはならない。肉欲を感じさせるものなどもってのほか、あくまでも清純で、処女性を備えている必要がある。次ぎに、その関係は私の側からの片思いでなくてはいけない。相思相愛では、神聖な域にまで高められたイメージも、たちまちにして卑近な現実の無禄と化す。この世では到底思いのかなわぬ高嶺の花 - この隔たりこそ、切ないまでのあこがれをかきたてる要因である。私にとってのマドンナはまた、絶世の美女ではなくてはならない。いやしくもマドンナというからには、普遍化された理想像であって、個性などというものの入り込む余地はないはずだ。美人ではないが気立てのいい女、というのでは、話にならないのである