どうしても苦しまなければならないというのならば、自分の中に住む善と悪の闘いにおいて善のほうに加担し、そこから生まれてくる苦しみに甘んじたい。自分の中に住む悪とまた別の悪の醜い戦いで苦しむよりずっとましだと思うから。
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は理論ではなく活動である。哲学の仕事の本質は解明することにある。哲学の成果は『哲学的命題』ではない。諸命題の明確化である
私たちが見ているのは、多くの類似性(大きなものから小さなものまで)が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである
きみがいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない
どうしても苦しまなければならないというのならば、自分の中に住む善と悪の闘いにおいて善のほうに加担し、そこから生まれてくる苦しみに甘んじたい。自分の中に住む悪とまた別の悪の醜い戦いで苦しむよりずっとましだと思うから
哲学を勉強することは何の役に立つのか。もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、哲学なんて無意味じゃないか
思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない
思考はそのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし限界をはっきりさせねばならない
きみ自身がきみの世界だ。きみの生き方で、きみの世界はいくらでもよくなっていく
およそ語られうることは明晰に語られうる。そして論じえないことについては人は沈黙せねばならない
命題の本質は、新しい意味を伝えることである
私の心の限界が私の世界の限界である
幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である
われわれが『意味』という語を用いる(全てではないにしろ)ほとんどの場合では、次のような定義が可能である。すなわち、語の意味とは言語におけるその使用のことである
哲学的混乱に陥っている人は、或る部屋の中に居てそこから脱出しようとしているが、しかしどうしていいか解らないでいる人、に似ている。彼は窓から脱出しようとするが、窓は高すぎる。彼は煙突から脱出しようとするが、それは細すぎる。しかし、もし彼が振り向きさえすれば、ドアはずっと開け放されていたのだ、という事に気づくであろう
きみがいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない。
世界と生は1つである
思考はそのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし限界をはっきりさせねばならない。
一つの言語を想像するということは、一つの生活形式を想像するということである
私は、私たちが言語と呼ぶものに共通する何かを挙げる代わりに、次のように言いたい。これら全ての事象が共通に持ち、それゆえに『言語ゲーム』という同じ名前で呼ばれるような、そういう共通項があるのではなく、これらの事象は互いに異なる様々な仕方で血縁関係にあるのである。そしてこの血縁関係 (一つとは限らない )のゆえに、私たちはこれら全ての事象を『言語』と呼ぶのである