卑劣な格言は、実際生活のうえでは重んじられていないが、理論のうえでは確固とした地位を築いている。
人間は希望を持っていないと、一日としてこの激しい生活に耐えて生きていけないのである。
毎日を、刈り取った収穫ではなく、まいた種で判断しなさい。
希望は永遠の歓びである。人間の所有している土地のようなものである。年ごとに収益が上がって、決して使い尽くすことのできない確実な財産である。
ぼくたちは さきに生まれて、背も高く、つよいのに これからは、小鳥のひなを おちびちゃんあつかい できない
一度結婚してしまうと、善良であること以外には何事も、そう、自殺でさえも残されていない。
赤茶と白の人なつっこいウシのことを、ぼくは心底愛している。もたらされるあらんかぎりのクリームは、アップルパイの付け合わせ。あちらこちらへとモーモー歩きまわり、それでもけっして迷子にならない。むきだしの心地良い空の下、心地良い陽の光に照らされて。通りすぎるすべての風に吹かれ、あらゆる雨に打たれて濡れ、雌牛は草地を歩いてまわり、そこの花々を食べている。
われらの目的は成功ではない。失敗にたゆまずして進むことである。
お互いに愛し合い知り抜いた間柄では、無味乾燥な「はい」や「いいえ」ですら、輝かしいものとなる。
家の目の前に街灯を持つぼくらはなんて幸運なんだろう、リーリーはほかのたくさんの街灯同様、立ち止まって火を灯す。でも待って!その光と梯子とともに先を急ぐ前に、ああリーリー、きみを見つめるこの子どもに、今晩こそ頷きかけてはくれないものか!
あらゆる人々を喜ばせることはできない。批判を気にするな。人の決めた基準に従うな。
自分自身になること、そして、自分がなれるものになることこそ、人生の唯一の目的である。
友達とは、自分への贈り物だ。
小さなインド人、スー族、クロー族、小さな雪まみれのエスキモー、小さなトルコ人や日本人たち、ああ!ぼくみたいになれたら、と思わないかい?深紅の樹々を見ただろうし、海の向こうの獅子たちも見ただろう。ダチョウの卵を食べたかもしれない、亀を逆さにして遊んだかも。そんな人生もいいかもね、でもぼくの人生ほどじゃない。歩きまくっているうちに、外国にいないことにうんざりするのさ。変な食べものには不足しないかもね、でもぼくにはちゃんとした食事がある。海のうえで暮らしているかもね、でもぼくは自宅で安全、快適。小さなインド人、スー族、クロー族、小さな雪まみれのエスキモー、小さなトルコ人や日本人たち、ああ!ぼくみたいになれたら、と思わないかい?
最も不鮮明な時代は現在である。
ぼくが夜中に枕を覆っていても、太陽は床についていない。地球を回るその先々で、朝また朝をつくりだしている。自宅で明るい光のなか、陽の射す庭で遊びまわっているとき、インドの子どもの眠い頭はちょうどキスを受けてベッドに横たわっている。黄昏どきに紅茶から顔をあげるとき、大西洋の向こうは暁の時刻、西の子どもたちはみんな、起き抜けで一日の支度をしている。
独創的になるには、そう生まれつくしかない。
あなたもだ、母さん、ぼくのこの、忘れがたい日々への愛の詩を読むのなら、もう一度聞くことができるだろう、床を駆けまわる小さな足音を。
結婚は討論によって妨害される永い一連の会話だ。
母親が家から見つめるなか、きみは庭の樹々のまわりで遊んでいる。もしこの本の窓を覗きこむのなら、きっと見つけることだろう、遠くの、ずっと遠くのもうひとりの子どもが、同じように庭で遊んでいるのを。でもね、こんなことは考えちゃいけない、その窓を叩き、呼び立て、その子どもの耳に届けようなどとは。彼はまるきり自分の遊びのほうに集中しているのだから。彼には聞こえないし、振り向くこともない、興味を惹かれて本から抜け出してくることもない。なぜって、ほんとうのことを言うなら、ずっと昔に、彼は大人になって、どこかに行ってしまったのだから。じつはこの子どもは、あの庭に居残った、残像でしかないのだから。