ただ言われたことを黙って受け入れるのではなくて、自分から積極的に求めていく。自分から求めていく力がつけば、国語だけでなく、ほかの教科にもそれが及んでいきます。生活態度はもとより、勉強に対する姿勢も自然と変わっていきます
大事なのは答えではなく過程です
自ら興味を持ち、自ら進んでいろいろとやりなさい
偏見を打破するだけの実質さえ備えておくなら、どんなことを言われても笑ってすませられよう
スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります
教師になってすべてがよかった。これ以外の人生は考えられない。教師という職につけたことがありがたいです
牛乳瓶2本半分もの血があふれていたのですが、破れた血管部分が突然かさぶたで覆われ、血が止まったのです。どうしてそうなったかはわからないのですが、医者も“奇跡だ”と繰り返していました
ときには苦しいけれども読む、書く、そして考える。そうしてみると、そのときは目一杯でも、あとで「心のゆとり」となって、必ずわが身に返ってきます。それが“教養”なのです
私自身のことを言えば、小学3年のとき、受け持ちの先生が薄っぺらな教科書を使わないで、分厚い講談本を読んで聞かせてくれたことが忘れられません。大阪夏の陣や冬の陣の話、そこで活躍した塙団右衛門や三好清海入道などの物語は、いまだにはっきりと記憶に残っています。それが面白くて、楽しくて、国語が好きになった
幸福観というのは人それぞれです。お金に幸せを感じる人もいれば、世間的な評価こそが幸福と感じる人もいる。それは歩いている道が違うのですから、そこに落ちている幸福の種が違うのも当然のことです。隣の道など気にしないで、自分が歩いている道の中に幸せを探すことです
“遊ぶ”は、毎日しなければならないこと以外に、自分の心身をなぐさめ、楽しむ行為。“学ぶ”は、自分の目標となるような人を見つけ、その人のようになれるよう、その人の真似をしていく行為
きっちりと労力をかけて学んだことは、どこかで必ず役に立ちます。必要以上に勉強したことがゆとりにつながる。これが本当の意味での「ゆとり教育」なのです
生徒たちの最終目標は、いい大学に合格することではありません。そんなものは単なる結果に過ぎない。大切なことは、人生を生きていくために必要となる「考える力」を養うことです
(今の目標)108歳の茶寿、111歳の皇寿、そして、120歳の大還暦を迎えること
人間が生きていくかぎり、いろいろなことに直面し、いろいろなことを考えなければならないでしょう。そうなると、「横道」経験が多ければ多いほど、そうしたさまざまな事態への対応力もより高まるのです
子供たちは、自分で体感し発見したことだから、自然と興味をもち、楽しみながら学んでいきました。遊びの感覚でやるから楽しい。“遊ぶ”と“学ぶ”は同じこと
何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから
灘校という自由にやりたいようにやらせてもらえる学校だからこそできたこと
戦後の「ゆとり教育」というものは、私に言わせれば「怠け教育」以外の何ものでもありません
何をどんなふうにしゃべろうかと常に考えている