謂ふなかれ今日学ばずとも来日ありと。言うなかれ、今年学ばずして来年ありと。
鬼神は只だ是れ気なり
学者、当に常に『志上溝壑に在るを忘れず』を以って念と為すべし。則も道義重くして、而して死生を計較するの念軽し。
鬼神は陰陽の消長に過ぎざるのみ
敢へて衆説を会して、其の衷を折す。
陽気発する処、金石も亦透る
精神一到何事か成らざらん。
鬼神の事の如きは、聖賢説き得て甚だ分明なり。只だ礼を将って熟読すれば便ち見ん。二程初めより鬼神無しと説かず。但だ如今世俗の所謂鬼神無きのみ。古来聖人制する所の祭祀は、皆な是れ他れ天地の理此の如きを見得たり。
人は欲あらば即ち剛なし剛ならば即ち欲に屈せず。
道統の伝に於て、敢えて、妄議ぜずといえども、然れども初学の士、或ひはこれを取ること有れば、則ち遠くに行き、高きに升るの一助たるに庶からんとしか云ふ。
始学の工夫は、須らく是れ静坐すべし。静坐すれば則ち本原定まる。
来諭に言ふ、其の神の焉に在すが如きは、真に在すこと有る者には非ざるなり、と。此の言尤も理を害す。若し此の如く説けば、則ち是れ偽なるのみ。又豈に所謂誠の掩ふべからざらんや
書を観るに先ずすべからく熟読し、其の言をして皆吾の口より出ずるが若からしむべし。
鬼神の理は、聖人蓋し之れを言ひ難し。真に一物有りと謂へば固より不可なり。真に一物有るに非ずと謂ふも亦不可なり。若し未だ暁然として見得ること能はざれば、且く之れを闘きて可なり。
物事が達成できない時、まず自身の志を責めなさい。
心情に敬の状態あれば、股体おのずと引き締まり、何も意識して加減せずとも、股体おのずから伸びやかにならん。
聖人は太極の全体なり。
近ごろ陸子静の言論風旨の一二を聞くに、全く是れ禅学。
無極にして太極ありとは、ただ形なく而も理あるをいう。無極なれば形なく、太極なれば理あり。
小人閑居して不善を為す。