私は日本の俳句がキノコと関係があるに違いないと確信した。というのも俳句は季節と関係があるからだ
来るものはすべて受け入れます。あらゆるものが流動的だという自分の考えに忠実でいようと努めているんです。電話がなければ今あるような私はなかったでしょうし、テクノロジーの流れに巻き込まれているわけですが、それに係わるのはあたりまえのことなんです
豊かさは、選んだりふるい落としたりしてではなく、積み重ねることで生じるんです。
もし何かが 2分経っても退屈なら、4分試してみることだ。でもまだ退屈ならその時は 8分、16分、32分。最終的にそれは全く退屈なものではないことに気づくものだ。
私達の生は、この世への働きかけを必要とするように見えることは確かです。でも、まさにこの世に働きかけるために、影響を及ぼそうとするのではなく、過ぎてゆくものや生起するものに対して、できるかぎり自分を開くことも同じように重要である、という見方もできるのです。
生じるということは、それが対象物(オブジェ)のようにそこにあるのではないことを表しています。世界は、現実は、対象物ではない。それは過程なんです。
作品はこれとあれを含まなければならないからこれこれの要素は排除すべきだといった、作品に対してあまりにも支配的で、また作品から遊離した見方に固執しないことです。作品を時間の外で考えないことです。
伝えるのではなく、語り合い、話し合うのです。伝達するということは、常になにかを押しつけることです。しかし会話の中では、押しつけられるものはなにもない
私は沈黙(サイレンス)に多くの場所を与えています。それは私が作曲家であるのをやめるということを意味しているのかもしれません。沈黙は私の代わりに語り、私がもうそこにいないことを明らかにしているわけです。
音は生きているんです。音楽とは、音の生であり、生への音の参与であり、そして―故意にではなく―生は音に参与するようになるはずです。
私は自分の感情から自由になろうとつとめています。そして自分の感情を殆ど主張しない人のほうが、感情がなんであるかを他の人々よりずっとよく知っていることに気づいたのです。
私が樅の木が一本もない森にいるとき、私の情報は、樅の木ばかりの森での情報とは違っています。すべてはまわりの状況と私達の意向によって違ってくるわけです。
(あなたの企ての<実験的>な性格は、時間に与えられた自由と切り離せないのですね?との問いに)ええ、<実験的>というのは、時間を計測する余裕などないうちにやって来てしまうものを指しているのですから
書物の死は言語の終焉ではなく、言語は存在し続ける。私の作品には沈黙(サイレンス)が溢れてきたのに、やはり音楽があるのと全く同じようにね
ええ、コンサート・ホールがなくなるように教室もなくなります。
感情を持つことは構いません、ただしその奴隷にはならないことです。
価値判断は私たちが適切に仕事するには破壊的だ。というのもそれは好奇心と気づきだからだ。
周囲の事情が私に回り路をさせた、それだけのことです。しかしこの回り路からは間違いなく面白い反響がもたらされるでしょう。それは必ずしも音楽上のことに限られないでしょうが
それは音楽そのものの反復ではなく、作曲法の反復にすぎなかったのです。
感情はあまりにも密接にエゴに結びついています。私達はエゴによって壁を築きます。個人を流れのままに、起こることすべての流れのなかに置くためには、この壁をつき崩さなければなりません。嗜好や、記憶や、感情を弱め、あらゆる城壁を破壊する必要があるんです