努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。
仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。
心が明らかになれば自ずと道も明らかになる。
聖人を信じて教えに素直に従うのもいいことだが、本来持っている善心に従うほうがよい。
ひとえに良知が真に発現するようにしさえすれば、受験勉強をしても、心のわずらいとはならない。たとえ、わずらわされても、容易に気がつき克服できる。たとえば、書を読んでいるときに、むりやり暗記しようとするのは正しくないと良知が判断したなら、すぐさまそれを克服する。速成の効果をあげようとする正しくないことがおこれば、すぐさま克服する。博識を鼻にかけ華やかさを競うという正しくないことがおこったら、すぐさま克服する。こんなふうに一日中聖人賢者と対照するのは、主体者が天理のままになることに他ならない。書を読むにせよ、それとて主体を調え保つことに他ならないから、なんのわずらいもないのだよ。
その好むところ見て、以てその人を知るべし。
諸君が努力する際には絶対むやみに進歩しようとしてはいけない。素質のとびきりすぐれた人はまずは皆無なのだから、学ぶ者が、聖人に一足とびに飛躍する道理など無い。起き上がったり転んだり、進んだり退いたりするのがあたりまえの努力なのである。昨日はちゃんと努力できたのに、今日になってできないからといって、むりにとりつくろって破綻のないようなふりをするのは、これこそがむやみに進歩しようとすることであって、さきの努力をさえもすっかりだめにしてしまうから、これは小さな過失ではない。たとえば、道行くひとが、けつまづいて転んだなら、おきあがってまた歩くようなものだよ。転ばなかったふりをして人を欺くことはないのである。
仏教者は親子関係のわずらわしさを恐れるからこそ、親子関係から逃避したのである。君臣関係のわずらわしさをおそれるからこそ、君臣関係から逃避したのである。夫婦関係のわずらわしさをおそれるから、夫婦関係から逃避したのである。おしなべて、君臣・親子・夫婦の関係という現実態に執着するからこそ、逃避することになるのである。吾が儒教では、親子という関係は、それを本来の「仁」という関係に還元し、君臣関係はそれを「義」に還元し、夫婦関係はそれを「別」に還元してしまう。なんで親子・君臣・夫婦関係の現実態に執着することがあろうか。
学問は自分の心の中に刻まれるのが第一義である。もし自分の心に照らし合せて、誤りだと思ったら、たとえ孔子の言葉であろうとも、それを正しいとしてはいけない。
君子は行いをもって言い、小人は舌をもって言う。
反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。
人の才能や気性はみな同じということはない。立派な人は人を型にはめたりしない。進取の気性に富む人はそれを生かし、律儀な人はその頑なな性格をいかして立派な人物に育てるのがよい
ただ善を行うことに心を一つにし、死か生か短命か長命かといったことに関しては、我が身を修めて天命を待つだけだ
われら儒者が主体を涵養する場合、けっして主客関係と遊離したりしないで、ひたすら天然自然の法則にまかせること、それこそが努力することになるのである。仏者は、むしろ、主客関係をすっかり絶縁しようとし、主体を真に存在するものではないとみなすから、だんだんと虚無寂滅の世界に埋没してしまい、世俗社会とはつゆほどの交渉も持たないようになってしまう。だから仏者は天下を統治することができないのだよ。
聖人の良知は、雲一つない青空の太陽と同様に全くさえぎられていない。賢人の良知は、片雲のうかぶ空の太陽同様に一部分がさえぎられている。愚人の良知は、黒雲のたれこめる空の太陽同様にすっかりさえぎられている。このように良知の発現に明暗の違いがあるといっても、ちゃんと黒白を見分けるという点は同じである。真っ暗な夜でも物事に黒白を見分けるのは、それこそ太陽の余光がつきていないからである。苦心して学ぶという努力をするとは、この一点の明るさを基点にしてとくと考察していくことなのである
人間の主体そのものは天や淵と同じである。我々の本体はすべてを包括しているから、もともと一つの天なのである。ただ私的欲望にさえぎられるために、天の本体が見失われてしまうのだよ。我々の創造発見するのは果てしがありませんから、もともと一つの淵なのである。ただ私的欲望にふさがれているために、淵の本体が見失われてしまうのだよ。もしいつも良知を発揮することを自覚して、このさえぎりふさぐ原因をすっかり取り去ったならば、本体はもはや回復するから、もとの天・淵になるのさ。
心は即ち理なり。天下にまた心外の事、心外の理有らんや。ただ心の人欲を去り、天理を存する上にありて功を用ひれば便ち是なり
目そのものに実体はなく、万物万象の色が実体である。耳そのものに実体はなく、万物万象の声音が実体である。鼻そのものに実体はなく、万物万象の臭いが実体である。口そのものに実体はなく、万物の味が実体である。心そのものに実体はなく、天地万物と感応して判断された是非が実体である。
家屋を建設することにたとえるならば、『道に志す』とは、土地を選び資材をあつめてきりもりして住宅を完成させようといつも意欲を持ちつづけることであり、『徳にもとづく』とは、計画がすべて完成し、生活の根拠ができたことであり、『芸に遊ぶ』とは内装を施して住宅を美しく仕上げることである。詩を朗誦し書物を読み、琴をつまびき射的を習うということなどは、実践主体を調教して道に習熟させる方法である。もしも、道を志向しないで芸にうつつをぬかすようでは、もののわからぬ子供が、先に住居をつくることもしないで、やみくもに絵画を買い込んでは正門に掛けようとするようなもので、いったい、どこにかけようというのかね。
私の場合、最も重要な点はただ日に減らすことを求めるにあり、日に増やすのを求めることにあるのではない。一分でも人欲が減らせたら、それはその一分だけ天理を回復できたということで、なんと軽快で簡単なことではあるまいか。