自我と自己。自我は変革可能だけれども自己は無限の可能性みたいなものだ
会社で使うエネルギーと家庭で使うエネルギーはまったく別のもの
肉体的にだんだんと衰える、下り坂を下ることのなかに人間としての成長を見出すという逆説を考えなくては本当の意味での老人の適応ということはあり得ない。
昔は母親が子供に「よい子」であるように願っていても、子どもの方は母親の管理を離れて勝手に行動できる余裕があった。熱心さはうまく緩和され、適当な度合いになっていたのである
社会がパターンを作ってくれないから、何をすべきかわからなくなった人は深刻に迷い出す。だから自由度が高くなった分だけ、「不幸の可能性」も高くなっていくのである
速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになる。
人間が死ぬときは頭だけが死ぬのではない。人間が死ぬことは、身体全体が死ぬのである
親の命令が画一的で、一から十まできちんと統制がとれている家庭の子は危険です。それに対して多少の悪さやいたずらをしても大目に見てもらえる家庭の子は、あまり心配しなくてもいい
学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。
人間の心が如何に分からないかを骨身に染みて分かっている者が「心の専門家」である、と私は思っている
人生には終着駅などありませんよ。それに、もしその道が行き止まりだったらどうしますか
子どもに「これ、読め」なんて言うとぜったい読まない。だけど「見てはいかん」と言えば、こっそり見に来て「案外おもろいやないか」。
冗談による笑いは世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方塞がりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる
だいたい子どもというものは“親の目が届かないところ”で育っていくんです
人づきあいを大切にするというと、すぐに「自分を殺して」とまで考えがちになる。しかし、そんなに自分を殺しても、人間はそれほど簡単に死ぬものではない。
嘘は常備薬、真実は劇薬
褒めたらつけ上がるなんてことはまずありません。もっと子どもを信用していい。子どもを信用できないのは、つまりは自分を信用していないから
自立しているものこそお互いに接触し頼るべき時は頼って生きているが十分に自立していない人間は、他人に頼ったり、交際したりするのを怖がる。
欠点のある人…誰しも欠点を持っているのだが…と、自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、愛があるのではないだろうか
現代の文明は、単純に「進歩」を目指しすぎるあまり、老人に対しても「いつまでも若い」というまやかしをして、問題の本質をごまかそうとしています