「人の働きの値打」をあげることが経済政策の根本主義だと思っている。またこれを経済法則に照して見ると、物の値打だとか、資本の値打のみを上げて「人の働きの値打」をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる。
仕事を本位とする以上は、その仕事がどんなであろうとも、いかに賤しく、いかに簡単であろうとも、ただ一心になって、それを努めるばかりである。こうすれば、どこにも不平の起こるべき原因がない。よい地位に昇ったからとて、われを忘れて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するはずもなければ、また、その地位が下がったからとて、失望落担することもないはずだ
人生を観るに、人は職業に成功すると云ふほど大切な事はないやうです。而して職業に成功するのが、人類生存の基準であると申して過言でなからうと思ふのです。されば人として職業のないほど、恥かしいことはないのであります
これまで私が官途についたのは、衣食のためにしたのではない。今日までは何時でも官を辞して差支えないだけの用意があったのである。従って、上官が間違っていて正しくないと思ったときは、敢然これと議論して憚るところがなかった。しかるにいまや、私は衣食のために苦慮せねばならぬ身分となっている。到底、以前のように精神的に国家に尽くすことができない。
国家といふものは、自分と離れて別にあるものではない。国家に対して、自己といふもののあるべき筈はない。自己と国家とは一つものである
学問は之を使ってこそ、始めて効用がある。世間の実情を観るに、学問を利用せず、却ってその奴隷となる人が少なくないようである。
百貫の力量あるものが、常に百貫の全力を一杯に用いることは誤りである。よろしく七十貫の力を常に用いて、余りの三十貫は貯蓄しておくべきである。こうすれば、一朝事があった場合には、百二十貫の力を出すことも出来よう。
生を踏んで恐れず
どんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつか強い運が向いてくるものだと気楽に構え、前向きに努力した。
株は、細く長く利殖を得ることを楽しまねばならぬ。ところが、わが国の株主にはさような観念がさらにない。はなはだしいのになると、借金までしても、株主になる。そして、一時の僥倖によって利益を得ようとあせる。つまり、本当の株主ではない。これではまるで相場師と少しも違わない。
一足す一が二 二足す二が四だと思いこんでいる秀才には生きた財政は分からない
今後は漸次働く者が働き易き時代に移ることとせねばなりません。それには人々の働きを尊重せねばなりません。これ経済発展の第一条件であります。しかしながら、折角のその働きを浪費せざること、即ち無駄を省くと云ふ事も亦国民の十分注意を払はねばならぬ点であると思ひます
もっと歳が若くて、先へ行ってご奉公できるというのなら別だが、ワシはもうこの年齢だ。いま、ご奉公しなければするときがない。ワシは最後のご奉公と思って入閣した。
既に取かかつた仕事まで中止するといふ事は考へものだ
自主的の準備とは、我が国の国際貨借の関係に於て、支払いの立場に立たぬやう、国内の産業、海運その他の事業の基礎を確立する事である
企業心と云ふものがなければ物の改良も拡張も出来ず、新規の仕事も起せない。多少の危険がある。初めて企業を起す、それが先駆となつて商業でも製造工業でも発達して行くのである。その企業に必要なのはやはり経営者なのである、それだけ力のある人が経営しなければやはり外国との競争に対抗して行く訳にはいかない。
子供の時から今まで、一貫して、どんなつまらない仕事を当てがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった。だから、世間に対し、人に対し、仕事に対しても、一度も不平を抱いたことがない
やれ対米為替が上つたから、やれ英米の金利が下つたから、金解禁に好都合になつたと、有頂天になつて居る者もあるが、それは少し早計でないかと考へる。もとより今日金解禁をなすに就ては、外国市場の金利や為替相場等の影響も考慮せねばならぬが、もつと、大事な事は、これを自主的にきめる事である
世の人は私を楽観論者だといい、自分自身でも過去を考えて見ると、何だかそうらしく思う。
なあ、直。忘れるなよ。順境は、いつまでも続くものではない。だがな、逆境というのもまた心の持ちようひとつで、これを転じて、いくらでも順境にすることができる