私は三日かからねばつまり二晩寝なければ解けないという問題から問題と呼ぶことにしている
人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です。
明治以前の日本人は死ねばそれきりなどとは思っていなかったのであってこの一生を長い旅路の一日のごとく思っていたのである
苦心を払わせるものを私は情熱といっている
オリジナルは生命の燃焼によってしか作れない。
数学上の発見に関して西洋人はインスピレーション型、日本人は情緒型
いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争がないようである間は、人類時代とはいえない、獣類時代である
日本だけのことではなく西洋もそうだが学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。
足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩をだすことができない。そういうのを抽象的といったのです
最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をもとに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです
敬虔ということで気になるのは、最近、「人づくり」という言葉があることである。人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う。
個性が出るようにするにはどうするかということを教えなければいけないのでしょうね。個性がなくなりました
知性は理性と同一ではなく、理想を含んだものだと思うが、はっきりと理想に気づいたのもギリシャ文化が初めてだった。これを代表しているのがプラトンの哲学・及びユークリッドの幾何学である
理想の高さが気品の高さになるのである。
自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います
問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね
時間は情緒に近い。
いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだからさあそれをやれといえば道義という肝心なものを教えないで手を抜いているのだからまことに簡単にできる
本質は直観と情熱でしょう
今、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。