他者を効果的に助けるためには、その人の理解の程度をしらなければならない。
それがわからなければ、私の優れた認識は役に立たない。指導とは、指導を受ける側を理解し、その人の立場から始めなければならない。
人を誘惑することのできないような者は、また人を救うこともできない。
絶望は死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。
それは死を死ぬことである。
行動と情熱がなくなると、その世界は妬みに支配される。
人生は降りかかる問題を解決することではない、眼の前の現実を体験することだ。
人生の初期において最大の危険は、リスクを犯さないことにある。
聖書はとても理解しやすい書物だ。しかし、キリスト教徒は策略的にそれを捻じ曲げている。
我々はそれが理解できているのに、理解できていないかのように振る舞っている。聖書に従った行動を取る義務があるというのに。
本来、お世辞というものは、女の身にぴったりと当てはまる衣装である。
もし、私が冒険をしそこなったとしたら、それはそれで、人生が罰を加えてわたしを助けてくれるだろう。
しかし、私がまったく冒険をしなかったとしたら、そのときには、いったい誰が私を助けてくれるだろうか。
人は何を愛すかという問題に対して人がなし得る唯一の答えは、人は愛されるにふさわしいものを愛す、ということである。
あらゆる人生は反復である。追憶は後方へ向かって反復されるが、本当の反復は前方に向かって反復される。
生きるとは自分自身を見失うこと、これが真実である。
この真実を受け入れている者は、自身を見つけるための歩みを始めており、地に足がついている。
望みを絶つのは死を意味する。大きな望みを持つ者は必ず勝つ。
だまされる者はだまされない者よりも賢く、だます者はだまさない者よりもよい。
たまたま私の身に起こることが私を偉大にするのではなく、私の行うことが、私を偉大にする。
自分自身を愛することを忘れるな。
信念は理屈をも超越する。
忘れるということができない者は、分別のある者にならない。
人間は思想を隠すためでなく、思想を持たないことを隠すために語ることを覚えた。
臆病が最も恐れるのは、決断を下すことだ。