人として弱いということは、生きていくうえで受けるべき苦しみを自分で受けとろうとしないことだ
信仰が人を幸せにすると言われれてきたことの意味がわかった。
神にかしずいて謙虚に生きることによって、もはや人への恐怖感がなくなるからだ。ふだんのわたしたちはそれほど他人を恐れて生きている
どうしても苦しまなければならないというのならば、自分の中に住む善と悪の闘いにおいて善のほうに加担し、
そこから生まれてくる苦しみに甘んじたい。自分の中に住む悪とまた別の悪の醜い戦いで苦しむよりずっとましだと思うから
地面にちょろちょろとしか生えていない雑草を引き抜こうとしても全く手に負えないときがある。
大きくて複雑な根が土の中に深くはびこっているからだ。難問とはえてしてそういう厄介なものだ。
今までのやり方で解決できるものではない。目に見えるところだけ対処していてもどうにもならない。根こそぎ引き抜く必要がある
考えるということは、要するに自分で何か映像をつむぎだしていくということだ。
何かが、あたかも自分の眼にはっきりと映るかのようにしていくのが「考える」ことだ。
どんな人でも、結局はそういうふうにして考えている
命題の本質は、新しい意味を伝えることである
「明日の朝がやって来る」というのは、単なる予想にすぎない
人びとが馬鹿なことをときどきしでかさなければ、賢明なこともまったくなされないことになる
哲学は自然科学の一つではない。「哲学」という語は自然科学と同レベルのものを意味するのではなく、
自然科学の上にある、または下にあるものを意味するのでなければならない
哲学の仕事の本質は解明することにある。哲学の成果は「哲学的命題」ではない諸命題の明確化である
お前の哲学の目的は何か? それはハエにハエ取り器から脱出する出口を示してやることだ
思考はそのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし限界をはっきりさせねばならない
われわれが「意味」という語を用いる(全てではないにしろ)ほとんどの場合では、次のような定義が可能である。
すなわち、語の意味とは言語におけるその使用のことである
本書の核心はほぼ次のような言葉で捉えることができるであろう。
およそ言いうるものは明瞭に言いえ、語りえざるものについては沈黙せねばならぬ。かくして、本書は思考にある限界を定めようとする。
というより、思考にではなく、思考の表現に限界を定めようとする。
なぜなら、思考に限界を定めるためには、われわれはこの限界の両側を(従って思考されえぬものを)思考できねばならぬからだ
歴史が私にどんな関係があろう
世界と生は1つである
世界の中には、いかなる価値もない。仮にあるにしても、その価値にはいかなる価値もない
世界の価値は、世界の外側になければならない
全ての科学上の問いに、答えが得られようとも、自らの人生上の問いには、答えは出せないだろう。
もちろん、そのときは、何も問いは残ってはいない。実は、まさしく、問いがないことが、答えなのである。
人類は、問題の消滅の中こそ、人生の問題の解決を見る
太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない