昔から方位で禍福を考えたり、月日で吉凶を説いたりすることがあって、世間ではこれを信じているが、この道理はあり得ない。
禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行ないとが招くところに来る。
財はよく人を富ますが、またよく人を貧しくするのは、なぜかといえば、天分の度合に小と大とがあるからだ。
小と大とに即応して経理する術を知っている者は、貧窮の憂いがない。
朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。
だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。
衰えた村を復興させるには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、
それによって放逸無頼の貧民がついに化して篤実精励の良民となるように導くのである。
ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。
一人の人間は、宇宙にあっては限りなく小さいが、その誠意は天地をも動かすことができる。
私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。
住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。目的があるのが倹約である。
心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず。
我が家の繁栄を捨て、身命をなげうって、無数の家を繁栄させることに努める。これが私の決意である。
大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし。
心の力を尽くして、私心がないものは必ず成功する。
村を仁にすることは難しくはない。まずは自分の家を仁にすることである。それから善人や正直者を厚く賞すれば必ず村全体が仁となる。
鳥獣は譲るということを知らない。人はそうではなく、今日のものを明日に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道がある。
恩には報いていかなければならないという道理をわきまえることができれば、
この世の中のこと全てについては、何の迷いも無く進められる。
粗食になれて、しかもそれを不足に思わない時には、為そうとしていることは総てが成就する。
人道は勤めるのを尊しとし自然に任せるのを尊ばない。勤めるということは私欲に克つということである。
この仮の身を、わが身とは思わずに、生涯一途に世のため、人のためをのみを想いながら、
国のため、天下のために貢献できることだけに励み、一人でも、一家でも、一村でも貧乏から抜け出て裕福になることを想い勤め、
怠らないようにしているのである。これが私の覚悟である。
親の養育を受けたことに報いるために子供を養育し、先生から教えを受けたことに報いるために子弟を教え、
人の世話を受けたことに報いるために人の世話をする。これが人道である。
遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す。
すでに熟したものを差し置いて、まだ熟しないものを心配している。これは人情の常である。
しかし、まだ熟しないものを心配するより、すでに熟したものを取り入れる方が、どれほど良いかわからぬ。
わざわいは過去の因縁によって来る場合もある。
名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか、いま貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」と詠んだとおりだろう。
決して迷ってはならない。