人々が日々歩いている場所に道が現れる。
ファッションの大半は、富の見せびらかしにすぎない。
財産の保全が政府の唯一の目的だ。
財産がない場所には不正もない。
すべての財産は労働の産物である。
教師にとっては、教えるよりも命令する方が簡単だ。
悲劇的な瞬間を表現するために、わたしは生涯の半分以上を費やしてきた。
彼らには可能だとか、不可能だとか言っている我々は、いったい誰なのだ?
あなたのために嘘をつく者は、あなたにも嘘をつくのだ。
全ての人間は自らの置かれた状況が、統治者に服従する根拠を持つか、それとも統治者に敵対する根拠を持つか、判断せねばならない。
我々は統治者の行動を査定する資格があり、権利があり、道義的義務がある。
さらにこの政治的判断は自己防衛のような、単純な、また本来的な権利であり、神に対する義務である。
立法によって人々の財産が奪われたり、破壊されたり、独裁への隷属と考えられるほどに減らされたりした場合、
立法府は国民に対して戦争状態にあると言え、国民はただちに法に従う義務から開放される。
なにごとかを一層深く身につけたいと思う者は、自分自身の才能と努力とによって、それをなければならない。
法制度の最終形態は廃止されることでも、制限されることでもない。
維持されて自由を拡大させることだ。法がなければ自由もないのである。
他人を従わせるための方法の一つは説得だ。もう一つは議論で、さらにもう一つは罰だ。
独裁が君主政治のみで生まれると考えるのは間違いである。
他の統治形態でも同様に独裁は生まれるのだ。権力が政府のある人たちの手にあれば、政府の財産を管理し、
反対勢力に権力を行使し、貧困を利用し、独断的で不公正な指示で服従させる。
権力が一人のために使われるか、それとも多数のために使われるかによって、独裁となるかが決まるのだ。
人間に他人への助力を無理強いすることはできない。その人自身の良心に委ねるしかないのだ。
反乱することも国民の権利である。
扇動的な動乱に人々を集めるものが一つだけある、それは圧政である。
自由とは、他人による拘束や暴力の被害を受けないことだ。
法があるところに自由が存在することはない。